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『こころをさなき世界のために
−親鸞から学ぶ〈地球幼年期〉のメソッド−』
著者:森達也
(洋泉社新書・税別780円+税)
「人はなぜ優しいままに人を殺せるのか、ということをずっと考えています」と著者は本書の中で言っている。その問いはオウム真理教との奇妙な関わりから生まれた問いだった。オウムに対する世間のバッシングのさなか、映像作家である著者はひとりオウムの内側に入ってカメラを回し続けた。ドキュメンタリー映画『A』 『A2』で見えてきたものは、内も外も同じ「普通の人」だった。一人称で考えることをやめて思考停止に陥った日本の社会のありようが浮かびあがってきた。「個が主語をなくしているからこそ、熟語が暴走する」と著者は言う。
オウムに限らず、「ナチスドイツや、文革、あるいは有史以来の戦争や虐殺も含めて、ほとんどの場合は、構成員が一人称で考えることを停止したときに、共同体内部の異物や外部の仮想敵への憎しみや殺意が駆動して、そして悲惨な結末へと転げ落ちる」。
森氏はその「人はなぜ優しいままに人を殺せるのか」という問いをもって親鸞と対話を始めていく。親鸞その人が「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」(歎異抄)と、人間の心の闇に立ちつくした人であるからに違いない。そして「親鸞一人がためなり」と、主語を、一人称を獲得した人であるからに違いない。
森氏と親鸞の対話は始まったばかりである。

『人生に意味はあるか』
著者:諸富祥彦
(講談社現代新書・税別720円)
「『何か』足りない」「心の深いところが満たされない」…。生きることに、虚しさや絶望を感じて自殺する人がいる中、人生について、じっくりと、本気で考えたことがあるだろうか。「ほんものの人生」「ほんとうの生き方」を求めていきたいと願うなら、避けては通れない問いである。
本書は、心の底から納得できる「人生の本当の意味と目的」について、宗教や文学、哲学、スピリチュアリティ(精神性・霊性)といった、多種多様な視点からヒントを探っていく。みずからの視野の限定性を自覚しつつ、それでもなお、少しでもより納得のいく「答え」を求めていくこと。これが一人ひとりに求められる姿勢である。人生の意味を「自分の問題」として捉え、「自分の答えを追求していく」――その刺激として様々な「答え」を受け取ってほしい。
「この問題について、ある『答え』を手にすることができるのは、ある種の『体験』を持った者だけであり、そこに至る自己変容がなければ、何の意味も持たない。」とある。「体験的な真理」は「知るもの」ではなく「目覚めるもの」である。またこの体験を「いのちのはたらき」とも著している。そしてそれは、「つねに、そしてすでに」与えられており、私を生かし、私を成り立たしめてきた。つまり、「私」は「真理」が現成する「器」にすぎない。…
空洞化した心に語りかけてくる様々な言葉。少し足を止めて、人生について考えてみるのもまた、必要な時間である。いのちからのメッセージに出会える絶好のチャンスかもしれない。

『スロー・イズ・ビューティフル』
著者:辻信一
(平凡社・税込1890円)
本の帯に「〈ゆっくり〉は、美しい/スピードに象徴され、環境を破壊しつづける現代社会は、誰にとっても生きにくい。それとは異なるライフ・スタイルを求めて、さまざまな場所で模索し、考える人々の言葉に耳を澄ます。〈遅さ〉という大切なものを再発見するユニークな試み」とある。
辻さんたちが呼びかけて今年もやった「100万人のキャンドルナイト」は大いに盛り上がったらしい。「でんきを消して、スローな夜を」と、夏至の三日間、夜の数時間電気を消して闇を取り戻し、ローソクの火を囲んで食べ、語らい、子どもに絵本を読んであげたり、蛍を見に外へ出たり……。電気をつけていることが文化の豊かさなのではない、かえって貧しいのではないか、というのである。
辻さんの「スローライフ」は、「もっと多く、もっと遠く、もっと早く、もっと豊かに」を合言葉として突き進んできた経済至上社会へのアンチテーゼである。ようやく私たちは失ったものの大きさに気づき始めたばかりだ。ともするとこういう運動は禁欲的な発想になってしまうのだが、辻さんはそうではない。それが喜びであり、「快楽」だからと。それがまたいい。
終章に、辻さんは詩人の長田弘の言葉で締めくくる。
「なぜわれわれは、じぶんのでない
人生を忙しく生きなければならないか?
ゆっくりと生きなければいけない。
空が言った。木が言った。風も言った。」
『親鸞と暗闇をやぶる力』
著者:上田紀行・高 史明・芹沢俊介
(講談社+α文庫・税込840円)
自殺者が年間3万人を越えたという。低年齢層の少年少女による犯罪、母親の児童虐待など、およそ考えられなかった事件が相次いで起こっている。そしてアメリカの「正義」をかざしたイラクへの戦争。無差別ともいえる殺戮で、いのちを育んできた小さな日常があっという間に破壊されていく。
この鼎談はそうした状況の中で行われた。文化人類学者である上田紀行氏と、家族・学校・社会犯罪について詳しい芹沢俊介氏が、親鸞聖人の教えを深く尋ねている作家の高史明氏に、それぞれが感じている現代の闇をぶつけるという形になっている。
豊かさと引きかえに何を失ってしまったのか。上田氏は、あるがままの自分の存在を認められたことがない「いい子」たちの悲劇をあげて、この社会を覆っている「生きる意味の病」を指摘する。芹沢氏は「イノセンス(根源的受動性)」の表出を受けとめという観点から現代の闇を読み解いていく。
本書は体系づけられた親鸞聖人の教学を前提として話が進められているのではない。むしろ闇の底に身を置いて、そこに呻吟する魂の叫びを聞き取ろうとしているのである。その位置とは「現実への違和感、苦悩は、自分の存在の深みからのメッセージなのであり、そのときこそ『生きる意味』が再創造されるチャンスでもある」(上田紀行)という位置であり、「親鸞のまなざしは、そのまま現代の闇をも刺し貫いている」(高史明)位置である。
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