
この夏はオリンピックに沸いた。鍛えぬかれた身体と精神力で競いあう選手は、勝者も敗者も共に計らいを超えた純な美しさに溢れていた。しかし中にはルールを犯してまでメダルを取るのだという者もでてくる。ルールは一応人間が作ったものだが、そのルールを生み出した誰もが認めざるをえない「法」(真実の道理)があるはずである。この法への信頼がなければ競技は成りたたない。
そして、オリンピックが終わった。またロシアでテロ事件がおこった。武装集団は学校を占拠し、学童を含む1200人を人質にとった。実はこれは人質でない。学童たちの殺害そのものが目的であった。イスラム以外の法そのものを否定し破壊するための無差別殺害行為であった。遂にそれが学童にまで及んだのだ。彼らは、子どもたちを生地獄に堕とし、自分が造った地獄を見据ることなく自爆していった。それが彼らの信ずる法への殉死なのか。
「なにが法なのか」「なにが真実なのか」
これがテロ事件がわれわれに残した根本的問いではないか。釈尊は、「法の真実を求め念じ続けよ」と呼びかける。そこで大事なことは、真実の法を念ずれば必ずその法から照らし出される自分自身に遇うことができるということである。だから自分が照らし出されない法は、それはただ自分で握っている法で、それは用らきのない死んだ不真実な法なのである。それで法に照らし出された親鸞は、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と深い懺悔の表白をした。人は法に包まれながら法に背いていることを知らない。南無阿弥陀仏。