
近ごろ街の車道は車で一杯、歩道は自転車が一杯である。自分が自転車のときは歩行者が邪魔になる。歩行者のときには自転車が恐ろしい。勝手なものである。
若ものは自転車で後ろからうまいことすり抜けていく。ときにはヒヤリとする。でもたまには、追い越しぎわにすいませんと声を残していく人もある。気持ちいいものだ。
先日、後ろからチリンと鳴らして、「ありがとう」と残していった自転車があった。その声には新鮮な深い響きがあった。相手は思わず軽く言ってくれたのであろうが……。
こんな場合に限らず、すいませんすら聞けなくなった街角である。ありがとうは、商店の店前では満ち溢れているが、響きのあるありがとうは聞けなくなった。自分自身がありがとうと言えない生活をしているのだから。
そんなことから思い出したが、昔、タコ八郎というコメディアンがいた。この人は、めいわくをかけてすいませんと、敢えて言わずに、「めいわくをかけて、(間)ありがとう」というギャグを残して死んでいった。このギャグが生まれるには、めいわくをかけることしかできなかった彼の人間業を、まるごと受け入れてくれてありがとうという意味が隠されているのだ。これは鷲田清一著『〈弱さ〉のちから』から教えられたことである。
「めいわくをかけて、ありがとう」は、タコ八郎の南無阿弥陀仏の南無であったのかもしれない。残念ながら彼にそれが聞けなかった。
(邦)