
オウム真理教の教祖、松本智津夫の一審判決は、予想通り死刑であった。「死刑でも軽い」と被害者の遺族は言われた。気持はよくわかる。しかし死刑に処しても、どうしても許せない心は残る。その許せぬ心の苦しみは、死刑にしても消えることがない。
オウム事件に一貫しているのは、教義教団の絶対化とその保身である。批判する仲間や弁護士を殺害し、更に武装化して人間社会そのものにサリンを撒き排除せんとした。自己が信ずる「真理」教と異なるものを排除抹殺すれば自己防衛ができると思い込んだ。
その結果、松本は残虐な犯罪を犯した。いまの社会の世論では、死刑にするのが当然と言われているようだが、松本を死刑にして排除すれば問題は終わるのであろうか。判決文を見ても、個々の事件の立証はされても、事件を生んだ思想・宗教、それを許してきた人間・社会そのものの解明は一向にされていない。どうもすっきりしない。殺害という排除に対するに、やはり死刑という排除をもってする裁きである感をまぬがれない。それで事件の本質解明は終わってないのだ。
排除には除かれたものへの悲しみも痛みもない。ただ憎しみだけである。
仏法という真理には、真理に背くもの、真理から除かれているものの罪を知らしめて救いとる『唯除』(ただ除く)という仏の大慈悲心がはたらいている。オウムが仏法の真理を掲げるなら松本自らが真理に背き除かれている自覚に立ち帰ることができるはずである。
(邦)