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社会を見る眼
 「タガ」が外れる
  第58回 <2002年7月>

ロゴイメージ タガ(箍)が緩(ゆる)む、タガを外すという語(ことば)がある。桶(おけ)や樽(たる)の外側にはめて締めつける竹や金属の輪が、タガである。タガが緩むと桶の用をなさなくなる。人間も年老いてくると締まりがなくなってくる。タガが緩んできたのである。緩んだら締め直せばよい。とは言うけれど、この締め直しがきかなくなるのだ。これは人間の個人にも組織にも言えることである。締めつけに堪えられないほど、素材の板そのものが疲労しているか、何かに腐食されているのかもしれない。

タガの締めつけが強いと、タガを外したくなる。緩めすぎると、タガは外れてしまう。いずれにせよ桶はバラバラに壊れてしまう。

近ごろ、タガが外れてしまったのではないかと思われる事件が次々に起こる。地位や権力を利用して身を守り、私腹を肥やすという、情けない犯罪ばかりである。人間としてのプライドも品性も感情すらもそこには感じられない。人間のタガが外れてしまったのでないか。

いったい、人間のタガとは何であるのか。容器にはタガのない壷(つぼ)や瓶(かめ)もある。人間は本来、桶なのか瓶なのか。

それで思うことである。仏教も「戒(かい)」というタガを持ってきた。しかし戒は外からの締めつけるタガでなくて、自戒である。不殺生に始まる最低五つの戒を自らに課してきた。そのなかで親鸞は、「無戒の名字(みょうじ)の比丘(びく)」と自ら名のった。タガの外れた名ばかりの僧だと自らを深く如来の前に懺悔(さんげ)した。この不殺生ひとつ守れない人間業に目覚めたのである。この無戒の懺悔の底には、タガの外れた無戒の者に対する如来の大悲心が用(はた)らいていることを感得したのである。

「つねに仏(ぶつ)(真実(まこと))を念じて生きよ」という如来からの大悲のよびかけを聞いたのである。念仏が懺悔せしめたのである。

─人はどんなに愚かであっても、必ず我(われ)に還(かえ)るものだ。機会あるごとに我に還って、愚かさを凝視するしか人間の未来はない(取意)─

先日、板倉秀典さん(香月美術館長)のこんな語(ことば)に出遇(であ)った。


(邦)


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