
新幹線の車両の間のドアが自動になったころのことだから30年ぐらい前だろうか。開いているドアに向かって、懸命に自分で閉めようとしているお婆さんに出会ったことがあった。
いまはそれが反対になった。寺の本堂の障子を最後に自分で閉める人が稀(まれ)になった。自動でないから開けっ放しである。自動ドアが公共施設では当然になったからであろうか。
つい先日のことである。寺の玄関のガラス戸がドンドンと鳴った。出てみると宅配の青年が荷物をかかえて、ガラスの引き戸を押し開けようとしている音だった。「引き戸だから押したって開(あ)かないよ」と教えたが、彼は怪(け)げんそうな顔をしている。土間に降りてこちらが開けたら、やっと解ったようだ。「まだ仕事に慣れてないもんで・・・・・・」。
彼は引き戸なるものを知らないのか。あるいは自動ドアが故障していると思ったのか。
小さなことだけれど、考えさせられた。
日本人の衣食住の生活環境は、ここに来て急変した。何百年と馴染(なじ)んできたものが急に捨てられた。楽(らく)で便利であればいい。確かに便利になった。それで以前の数倍も仕事を楽にこなせるようになった。余暇も楽しめるようになった。それで仕事も遊びも、より忙しくなった。便利で楽したいという欲望を刺激して拡大することが資本主義だから当然である。
「小欲知足」という語(ことば)は死語になった。現代は、多欲で知足の生活を求めている。しかし、現実は「多欲不知足」で欲求不満が満ちみちている。
環境とそれを生きる主体(ひと)の関係は、永遠の課題である。はたして手間がかかり不便なものを切り捨てれば、それで幸せな環境が生まれるものだろうか。どんなに楽で便利でも、他から与えられた環境では満足できないのも人間である。本(ほん)ものは、みんな手間がかかり不便なものから生まれるのである。便利で楽になれば必ず何かが欠落してくる。それは何かが一人ひとりにいま問われている。
(邦)