
「父にまた一度会って頂けませんか」とある青年から頼まれた。彼の父は私の友人である。もう十年来、「筋委縮性側索(きんいしゅくそくさく)硬化症」という難病にかかっている。歩行困難から始まった病(やまい)は、全身の筋肉の力を奪っていった。寝たきりになって、しゃべることも、飲み込むことも、呼吸(いき)することすら不可能となった。幸いにして、頭は明晰(めいせき)である。声は聞ける。涙と笑顔で感情は表現できる。しかし、唯一の意思を伝える手段は、かすかに動かせる眼(ま)ばたきだけである。奥さんが作った五十音を書いたボードを、一字ずつ指し示す音声に、眼ばたきで応える。それが綴られて語(ことば)になる。こうして夫婦は対話するのである。
こんな病状の中で今度は腸に癌(がん)ができた。いま手術すれば治(なお)るといわれた。本人は、「もうこれ以上は厭だ!」と手術を拒否し続ける。家族は、「手術を受けて生きる意欲をもってほしい!」という。
私には、彼の気持も、奥さんの気持も両方よくわかる。自分だったらどうするか。彼と同じように手術を拒むだろう。しかしどうなるかわからない……。とり敢えず手紙だけを書き送ってから彼を見舞った。案外色つやのよい顔をくしゃくしゃにして泣いて喜んでくれた。ひとつの対話に大変な苦労をしながらも通じ合えた。
「このひと、私(わたし)に『君はボクを利用している』って言うんです。私(わたし)、自分でもそう思います。もしこの人がいなくなったら、どう生きたらいいのか自分がわからないんです……」
奥さんは、夫の枕辺で自然に語る。そして、「ツマノオ(カゲデ)」の「オ」まで聞いて、「そんなこといいの」と途中で打ち消す。
死に真向(まむ)かう生の狭間(はざま)で、こんな会話ができる夫婦に接して、なるほど人間の愛は煩(わず)らい悩むものである。煩悩(ぼんのう)する愛だと痛感させられる。そして煩悩するところに、はからずも生きる意欲が彼に与えられているのである。不思議なことだ。
彼は、明日(あした)入院する決意を固めていた。
(邦)