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社会を見る眼
 「殺(ころし)と感受性
  第52回 <2001年7月>

ロゴイメージ いのちは生まれそして死する。生死は自然(じねん)である。

ところが、動物は他のいのちを殺さなければ自(みずか)らのいのちを保(たも)つことができなく、二律背反(にりつはいはん)のいのちである。

しかも、人間だけはさらに他の動植物のいのちのみならず、同じ人間のいのちまで殺さずにおかない。「人が人を殺してなぜいけないのか」という未聞の問いが出てくるほど、「殺」は当然であるかのごとき日常性になった。この「殺」を犯すのも人間だが、「殺」を痛むのも人間である。

人間にまつわるこの「殺」という事柄の怖ろしさより「殺」が当たり前の感覚のほうが怖ろしいことだ。毎日報ぜられる殺人事件の数々。そして1998年から急増し3万3000人を突破した自殺者の数。これだけ日常化すると「殺」に対する感受性が鈍くなってくる自分が怖ろしい。自分にふりかかるような「殺」には恐怖を感じても、どんな縁に遇ってどんな「殺」を自分も犯すかもしれないという怖れの感覚が鈍(にぶ)い。人間自体の罪とか業という不可解さを抱えて生きている自分であるにもかかわらずである。いのちに対する自分の感受性が消えかかっている。それが怖ろしい。

先ごろTV報道特集で、「バスジャック被害者の365日」を報じていた。その中で、少年に殺された母親のご子息である画家の方がこんな意味のことを語っておられた。

「母を殺したあの少年がたとい死刑になっても私のこの事件は終わらない。どうしても許せない私が残っている限り。彼が自分の罪に気づいて申し訳なかったと謝りに来ても、私は門前払いをするだろう。それでも何度でも訪ねてきて罪を詫びたときがくれば、そのとき彼を許せる自分を初めて許せるであろう」

経典に、親を殺したアジャセに対して、「無慚愧(むざんき)は名づけて人とせず」とある。つまり慚愧のみが人が人となる唯一の契機だと教えるのである。この慚愧心は殺人者だけの問題ではない。人間の感受性の問題である。

(邦)


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