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社会を見る眼
 わたしはなにを欲求しているのか
  第50回 <2001年3月>

福祉の仕事をしている24歳の青年に出遇(あ)った。彼はお寺の住職の任命を受ける研修に参加したのである。だが、住職への意欲よりも、いま在宅障害児のホームヘルパーの仕事に意欲を燃やしている。

重度の障害者は、自分が何を欲求しているのか自分でもわからない。それなのに介護者がその欲求を推測して一方的にまず与えてしまう。それが福祉の仕事なのかと、彼は仲間たちと考えはじめた。こちらから与えるだけでは、彼等の意欲をむしろ摘んでしまうことにならないか。彼等に欲求・意欲がないわけはない。

それが表されるまで注意深く見守って待とうと決意した。それはつらくて困難なことであった。途中で逆戻りしたくなる自分の無力を感ずるときが流れる。それがあるとき、ふっと相手の欲求に触れることができた。そしてそれに応えることができた。初めて障害児の顔が輝いた。自分も嬉しかった。年中無休のつらい仕事も、こんなに充実した楽しい仕事はないといま思うようになれた―と。

重度の障害者は自分の欲求がわからないというけれど、健常者でも実は自分自身の本当の欲求がわかっていないのでないのか。あれもこれもとすぐに欲求を表現することができるから、その欲求にごまかされて、本当の欲求・深いたましいの欲求はわからないでいるのでないか。親がわが子の深い欲求まで果たしてわかっているのか。子どものためを思って苦労して金で買える幸福の条件をただ与えているだけなのではないか。「そんなものじゃないんだよ」と子どもは叫んでいるようである。

重度の障害者は、特別の人間ではなく、人間そのものをそのままに生きている人間の手本なのかもしれない。分別のはからいから離れた純なる本能を生きている人ではないか。むしろたましいが開かれている人たちではないか。

はからい多き、罪障(ざいしょう)深きわれらは、光に遇ってこのはからいの闇が破られなければ、本当の意欲にめざめることができないのだ。

(邦)


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