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社会を見る眼
 おのずからしからしむ
  第49回 <2001年1月>

20世紀は去っていった。21世紀が始まる。人間は、理知が抱えている深い闇に気づかないまま、その力を過信し自分に陶酔(とうすい)し続けてきたのでないか。人間中心主義のままを21世紀も走るしかないのであろうか。

「なにかおかしい」と感じながらそのおかしい根っこがわからない。だから未来が不安であり、それが闇となっている。

昨年、上高地の晩秋を一日散策した。大自然の山と川と森を賞めでながら大正池まで来ると、そこには大きな浚渫(しゅんせつ)船がうなりをあげていた。

焼岳(やきだけ)の大噴火(1915年)でできたこの池を保護するためだという。梓(あずさ)川がせき止められて自然に池ができた。そしてまた砂礫(されき)によって池が埋まって元(もと)の川に帰ろうとしている。それが自然のはたらきである。しかし、その自然を観光の対象である「自然」として利用せねばおかないのが人間である。人間は、あらゆる欲望の対象として自然までもの化して利用しないではおかない。利用できないものは、排除しなければならないのである。

自然について、親鸞が最晩年86歳のとき、弟子に語られた言葉が残っている。自然を「じねん」と読んでいる。それは英語のNature(ネイチャー)を翻訳した自然(しぜん)とは全く異なる意である。

親鸞は、自(じ)も然(ねん)も人間の思慮分別(しりょふんべつ)がはたらく余地のないこと(「行者のはからいに非(あら)ず」)であり、おのずからそのように「しからしむ」というはたらきの言葉だという。その自然(じねん)のはたらきを「如来の本願」とよぶのである。だから阿弥陀仏の本願とは、この自然のはたらきをわれらに知らせんがためのものだという。

自然とは人間の思慮分別で利用したり排除したりできる、向こうにある人間の対象ではないのである。自然(じねん)とは、われら人間の迷盲(めいもう)を破るよびかけの語(ことば)なのである。人間があって自然があるのでない。自然の中に人間があるのだとめざめよとはたらきかけているのだ。

この親鸞のつぶやきは、21世紀の人類の指標となる言葉ではないだろうか。

(邦)


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