8月末ごろの朝日新聞「天声人語」欄に、こんな書き出しの文があった。
「大きくなったら何になりたい。
―大きくなっても何にもならないよ。ボクはボクになるんだ―」
(遠藤大河くん・5歳)
分別(ふんべつ)ある大人は五歳の大河くんに完全に一本とられてしまった。ボクはボクになれないでいるのに、さもなっているようなしたり顔をしている大人たち。学力をつけ、肩書きをつけ、財力をつけ、善悪の判断力をつけるのが人間の唯一の条件の如く思いこんでいる大人たち。そういう属性は、みんなあとから付いた付加(ふか)価値である。それを互いに比べ合い、競うことで疲れ果てている大人たち。そして本当はどうなりたいかもわからずにさ迷(まよ)い続けている大人たち。こんな私たち大人の常識から出てくる問いに隠れているごまかしを、5歳の純な眼で見抜かれてしまった。「そうじゃないんだよ!」と。
先日、7,8名の友達と遭って、子どもの登校拒否とかフリーターの話になった。その年代の青少年を抱えている3人の40代の親たちは計らずも、我が子が登校拒否をしていたり、かつてそうであったという、親の深い悩みや不安を語っていた。そのうち、親も大変だけれど、子どもたち本人はもっと深刻に悩んで不安であるに違いないと会話が進んでいった。
私は、その会話を聞きながら、ボクがボクになれないで苦しんでいる子どもたちを、自分もそうだと一緒に苦しみながらじっと見つめている眼をもっている人たちだなあと感じた。
誰の人生も、「ボクがボクになる」ための人生である。だけど、ボクになるのは容易でない。そこで、人間そのものに付属している価値を、ボクになる第一条件だと錯覚し、ごまかして我が人生を終わらせていく。
「ボクはボクになるんだ」という願いは、いのちが要求する願(がん)である。その願を仏さまの本願(ほんがん)というのであろう。
(邦)