今年も、おぼんの法要の中で新盆(にいぼん)を迎える家族だけの座談をもった。
老いた母の介護に備え、数年前から介護士の資格をとって寝たきりの母を介護してきた女性(ひと)がおられた。
いざ実母の介護となると、他人(ひと)さまのようにはいかないことがわかってきた。肉親なる故にお互いわがままが顕(あら)わになってくる。寝返りひとつさせるのも、他人(ひと)さまよりずっと重い。母はただ生きたい生きたいだけであった。
「お母さん。もうそんなに頑張らなくてもいいんだよ」あるときこんな語(ことば)が出てしまった。─私はなんと冷たい娘か─ハッとした。それから間もなくして母は逝った。
亡くしてみて私にとって母の存在がいかに大きかったことか。いま身に沁(し)みて感ずると。
座を囲む他(ほか)の人たちもみんな頷いていた。心を開いて涙ながらに語られたことが、みんなに通じ合えたようだ。他人(ひと)ごととして聞き流せない感じだった。
長い看病の間には、親であっても「もうソロソロ…」という心と、終わってみれば「ヤレヤレ…」という心も正直な心であろう。しかし、それはあくまでこっちの心である。気がついてみると、看病されている相手の心ではなかった。そう気づいたら、故人となってしまった母の存在が大きく迫ってきたのであろう。
母の介護を通してこの女性(ひと)は、母も自分も人間であるということ。その人間の弱さ・愛(いと)しさ・哀(あわ)れみ・悲しみを知ることができた。
親であり子であっても、ひとはそれぞれ代わって貰うことのできない「性(さが)」がある。「業(ごう)」がある。人生は自分の人生なのに思いどおりにならない。人生には「運命」としか言いようのない面がある。ただその運命を自分の責任としてひき受けられるかどうか。逃げればどこまでも運命は追いかけてくる。受ければ人生は開かれる。弱い自分は自分を受け切れないが、仏を念ずれば仏が私をひき受けてくださる。するとこんな弱い私でも、私をひき受けられる。不思議である。
(邦)