近ごろ、お葬式をやめてお別れ会をするのが目立ってきたようだ。とくに宗教嫌いをもって任ずる文化人の先生方は、葬式を敬遠されるようだと聞く。
それも分からぬことでもない。いまの大方(おおかた)の葬式は故人と真向かうよりも、生きた者同士の世間の名利(みょうり)や体裁が先行し、多額な費用がかかり過ぎるのに疑問を感ずるからである。そういう私も葬式に関わる僧侶の一人である。
だからといってすべての葬式がそうだとは言えない。葬式は無用だとは言えまい。葬式は人間の宗教心に関わる大切な儀式である。お別れ会は、故人への追憶の集いであって宗教心と無関係でも成り立つ。
葬式にしろ、お別れ会にしろ、基本的にあるのは死者との直接の対話であろう。生涯を貫いた故人の願いとか意欲に、残された者が共感し頷(うなず)き合える緊張感がその場にピーンと漲(みなぎ)っている、そんなお別れ会や葬式もある。
以前、尾崎豊とかヒデとかの葬式・告別式に何千人もの若者が、自分を言い当ててくれたその歌手の死に頭(こうべ)を垂たれる別れの時のために、ただ待ち続けていたということがあった。
動物にはない人間だけの死者への追悼の情は美しい。しかし人間の死には憎悪に満ちた死もあれば、残念無念の死もある。ヤレヤレという死もあるだろう。
どんな死であっても、無条件で受け入れる世界がなければ人生は完結しない。優劣・利害・善悪・愛憎の人間の物差しだけで死者を測(はか)ることはできないのである。お別れ会は、人間の美しき追悼の情で成り立つ。それが本当に成り立つのは希有(けう)なることかもしれない。
念仏に生き念仏に死んでいった人の葬式には、参列する人たちの念仏がその死を包み、わが生をも包み込んでくれる。
人は、帰るべき世界を見失って人生を放浪する。人の死に出遇あって「汝(なんじ)われに帰せよ」という仏のよび声が念仏となって聞えてくる。その念仏において故人と感応(かんのう)が生まれる。お別れ会でない葬式が仏事(ぶつじ)である所以(ゆえん)であろう。
(邦)