二月の末、日本で初めての脳死による臓器移植が行なわれた。この法の基本は「患者・家族のプライバシーと情報の公開」が謳(うた)われている。にも拘らず報道側の過激さと医療側の移植手術への急進さによって、多くの問題が露呈されたことである。
この問題には、提供者と家族の素朴な善意、そして死別の悲しみ。さらに第三者の他人の死を待って移植を受ける側の生の喜びとが同居している。こんな生死に関わる微妙な問題を胎(はら)んでいる。
西洋医学は、人体は部品の集まりで、故障したら交換すればよい。死んでしまった身体は、ただの死体であって魂の抜け殻(がら)でしかないという考え方に立っているのだろう。
臓器移植という部品交換のためには、脳死の判定が不可欠である。しかもこの臓器移植は、誰もが望む延命の幸福をもたらす最先端医療なのだという科学技術信仰がひそんでいるようである。だから誰もが認める社会正義なのだという確信があるのであろう。そして、その正義を支えるのは、臓器提供者と家族の善意であるのだ。この正義と善意が脳死移植を成り立たせている基(もと)にあるのである。
だからこの移植法は、プライバシーと情報公開を掲げている。にも拘らず現実には、医療側と報道側のこの正義感が、いつの間にか患者家族の自由を侵害することになりかねないのであった。
正義や善意は大切なことであるが、問題はそれに対する執着である。執ほど怖ろしいものはない。誰しもこの命はいとおしい。しかし、どんなにいとおしくても必ず死がある。
星野富弘さんの詩がある。
命(いのち)がいちばん大切と思っていた頃
生きるのが苦しかった
命(いのち)より大切なものがあると知った日
生きるのが嬉しかった
こんな生きる嬉しさもあるのである。「命より大切なもの」とは、勿論、臓器という部品ではない。この大切なものを知るために、死のある生があるのであろう。
(邦)