故人は脳溢血(のういっけつ)を患(わずら)い、十年以上もリハビリを続けておられた。いつも奥様の介添(かいぞ)えで、近所をご一緒にゆっくりゆっくり散歩されていた。その方が亡(な)くなった葬式のときである。
葬儀の勤行(おつとめ)の途中から、喪主(もしゅ)である奥様から焼香が始まり、以下、家族・親族・知人と続く。奥様は焼香され、しばらく合掌し、念仏されてから座に戻り、勤行を静かに聞いておられた。
『南(ナ)無(ム)阿(ア)弥(ミ)陀(ダ)仏(ブ)南(ナ)無(ム)阿(ア)弥(ミ)陀(ダ)仏(ブ)……』
勤行の称名(しょうみょう)念仏に合わせて、奥様は合掌し、微(かす)かに口元を動かして念仏されていた。隣のご長男も母親に合わせて合掌されていた。
やがて親族の焼香に移り、ひとりのご婦人が、まず喪主に対して、まことに丁寧(ていねい)に手と頭(こうべ)を畳につけて深々とご挨拶をされた。
奥様は合掌念仏したままで、それと気づかれない。隣のご長男に促(うなが)されて、ハッとしたように合掌を解(と)いて、相手に合わせて深々と返礼をされる。そして、また合掌に戻られた。焼香を終えたご婦人は、再び喪主にご丁寧な挨拶をされる。奥様は、また合掌を解いて返礼される。
続いて焼香する人がみなこれにならって、焼香の前後に喪主への挨拶が繰り返される。葬式でのこの光景は当然のことになっている。
が、そのとき私は、合掌を解いて返礼を繰り返すこの奥様の姿をみて、葬式っていったい何なのかを思っていた。
勿論、会葬者が遺族にお悔(く)やみ申し上げることも大切である。しかし、いま夫を亡くした妻が、故人と真向(まむか)って静かにその人を憶(おも)い、南無阿弥陀仏と合掌念仏されているのである。そのお念仏を、いかにも丁重(ていちょう)な社交の挨拶が平気で障(さまた)げているのでないか。
ひとが、合掌念仏せざるをえない心は、独(ひと)りの心である。心の底から静かに発(おこ)された微妙な心である。この微妙な念仏の心が、大切な葬式の場で踏みにじられている。葬式が宗教性を失って、社交儀礼の場になってしまっている。これは単に、葬式だけの話ではない──。
(邦)