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社会を見る眼
 猛毒を入れて喜ぶ魔性
  第36回 <1998年11月>

オウムのサリン事件から、もう三年を過ぎた。あの非道(ひどう)な虐殺(ぎゃくさつ)犯罪は、いまにその尾を引いている。不特定の人々に対して猛毒を入れて殺害する事件が跡(あと)を絶たない。
 祭りに用意したカレーに猛毒を投げ入れた事件。事務所でいつも飲んでいるお茶に毒を入れた事件。マーケットの缶ウーロン茶に細工(さいく)して、劇薬が注入されていた事件。連鎖反応(れんさはんのう)と思われる犯罪が次々とおこっている。こんな犯罪、「ボクには関係ないよ」と言いたいけど言えない問題を胎(はら)んでいるのでないか。現代、人間の魔性が一時にふき出してきた感がある。まさに「殺」の時代である。

 西洋には裁(さば)きの神がいた。その神の罰(ばつ)を怖(おそ)れる心が生きていた。東洋には、大雑把(おおざっぱ)にいって輪廻転生(りんねてんしょう)の法(道理)が生きていた。死んだら終わりでない、死んでも生まれ変わる次の生があった。だから罪悪を怖れた。

 もっとも仏教はこの生を転生の最後の生として、罪業(ざいごう)の怖れからどう解放されるかがテーマであるが──。いずれにしろ、人間が生きることを支える原理があった。近代の理知は神も仏も殺してしまって、自分が生きる原理を見失ってしまった。人間の魔性が見えなくなってしまった。

 つまり、自分の感情・感覚・意志だけを唯一絶対の行動原理としてしか生きられなくなった。しかもその行動原理に全く疑いを懐(いだ)かなくなった。自分がいま感じて思っていることを絶対化して行動すれば、それがどんな結果をもたらすかまで考えられなくなったのだろう。そうなれば、究極は一直線に「殺」にまで突っ走ってしまうほかなくなってしまう。

 いまの子どもを「自己チュー」だというそうだが、現代人の殆(ほとん)どの行動原理は、この自己中心主義であって、しかもその原理を疑おうともしない。その自己も極めてあいまいのままの自己であるのに。自己中心の生き方そのものよりも、むしろそれを疑わない生き方のほうがもっと怖ろしいことではないか。

「人間がほんとうに悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる<ゲーテ>」
(邦)






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