近年とみに墓参りをする人が多くなった。東京の墓地は、彼岸の中日(ちゅうにち)などまるで行楽地の如き賑わいを呈する。彼岸だけでない。正月も初詣の続きのように若い人たちで一杯である。
この墓参り大流行に対して、自分の好きな山や海に遺骨を撒(ま)き、散骨(さんこつ)をする人がでてきた。これなら墓も要らず墓参りも不要である。これが現代人好みの合理的情緒的遺骨処理法なのであろうか。
親鸞という人は、「自分が死んだら鴨川に入れて魚に与えよ」と言い遺(のこ)したそうである。だけど遺弟(ゆいてい)たちはこの遺言を守らず、墓に納骨し廟堂(びょうどう)を建てた。そしてそのご廟の前に立って合掌念仏し、亡き師・親鸞がいまも現にこの自分に教えを垂(た)れていると感得してきた。この廟堂がいまの本願寺の濫觴(らんしょう)である。
自然に帰る散骨というが、つまりそれは骨をすてるのである。親鸞も遺骸(いがい)をす・て・よ・と言った。それはわが遺骨を拝むより、人生の一大事は南無阿弥陀仏と合掌念仏せよと言った。そして、人生の真実を聞き続けよと言ったのである。
す・て・る・には「棄(す)てる」と「捨(す)てる」とがある。棄(き)放棄とか廃棄のすてる。捨(しゃ)は取捨とか喜捨のすてるである。仏教ではとくに捨の精神を尊ぶ。如来の心を慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しゃ)の四無量心(しむりょうしん)で表す。この捨無量心とは、自分の執着を捨てる、差別する心を捨てる絶対平等心である。つまり捨とは仏心なのである。
だから、この捨心には必ず礼拝(らいはい)という宗教的行為を生み出してくる。捨という平等心に立つことのできない人間には、捨心を拝むほかには捨心に触れることはできないからである。
京都東山(ひがしやま)に大谷祖廟(そびょう)という親鸞のご廟がある。そのご廟に念仏者たちはいつでも誰でも遺骨を合葬できる。この墓に骨を捨てることができる。祖廟は個人の墓でも家の墓でもない。親鸞さんの墓がみんなの墓なのである。大谷祖廟には、親鸞の捨心がこのような形となって残されてきたのでないだろうか。○○家の墓に、また散骨に、この捨骨の精神があるだろうか。
(邦)