東京湾の埋立地を見てきた人から、カルチャーショックを受けたと聞いたので、仲間と一緒に見学してきた。
その埋立地は、ガス抜きのための鉄柱が林立しているだけで、極めて殺風景なただ広いだけの都会の砂漠地帯だった。今年の春から生ゴミを直接埋めなくなったので、うみ鳥たちすら飛んでこなくなった。生ゴミは都内各所の清掃工場で焼却されるようになったからである。その沖合いには、東京のいよいよ最後になる新埋立地の工事が進められていた。しかし、それも十五年で満杯になるという。
ゴミといえば汚(きたな)い臭(くさ)いもの。清掃工場はそれを払拭(ふっしょく)した。その最近の工場は、外観はまるでどこかのホテルのように美しい。その中では、体育館のように広くて底深い巨大なゴミ箱に可燃ゴミが集められる。ひとつかみ四トンの大バケットがそのゴミを二十四時間かく拌し続ける。そして時に思い出したように焼却炉へ投入し続ける。全部がコンピューターで管理されていて、二人の技師がモニターの画面を見守っているだけである。
そのゴミの半分以上は使い捨ての用紙だそうだ。この紙が地球上の樹木を乱伐しているのだ。地球は砂漠化し、大地も大気も汚染され続けているのだ。
今回の京都での国際会議でどういう方途(みち)が見い出せるのか。せめて地球の破滅を少しでも遅らせるということしかないのであろうか。
大地から生まれたものは大地に帰る。しかし、人間の頭(理知)が生んだものを大地に帰すのは至難なことだ。これが現代のゴミ、現代の濁(けが)れの問題ではないか。ゴミから汚(よご)れと臭(くさ)さをなくして埋立てても消えない「濁(じよく)」がある。使い捨てになんの痛みも感じられない。使い捨ては当り前としているわれわれの中の「濁」である。
使い捨てられた膨大(ぼうだい)なゴミから、どうしても使い捨てにできないものはお前にとって・なにか・と問い返されているように思えた。
(邦)