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社会を見る眼
 駅前にある大銀行
  第30回 <1997年11月>

大銀行や大証券会社が総会屋にまつわる事件を聞きながら、昔こんな対話を銀行家の人と交わしたのを思い出した。
 わたしが時にお邪魔するお寺の総代さんに、ある大銀行の頭取までされた方がおられた。寺の行事が終わって懇談の席で盃を交わしながら、フトこんな質問をしてみたことがある。

「銀行というのは、どうして必ず駅前の一等地にあるんですか?」

「うーん。やっぱりお客さまから預金をいただくには便利なところでないとねェー」

「駅前一等地でないと庶民は預金しませんか? 裏通りでは大銀行の看板が泣きますか? 一等地は地元の商店に譲っていただいて、せめて一本裏通りにあるほうが、銀行の本来のように思えますけどー」

「いままでこんな質問をされたのは初めてですねェ」

 素人(しろうと)の坊さんがなにを言い出すのかとあきれ顔のご様子でした。

 いま庶民はみんな怒(いか)っている。大事なお金を預け、わずかな利息を当てにしている人。コンビニに追い払われまいと頑張っている商店の人。不景気のしわ寄せをもろにかぶっている零細企業の人。その人たちは怒りにじっと耐えている。

 実業といいながら、日本の経済はまさに虚業(きょぎょう)にうつつを抜かしているのだろうか。

 お金は大切である。だから財力という力がある。力には魅力があるからそこに魔がひそむ。金を握っているものの傲慢(ごうまん)という魔である。この魔は見えにくい。魔を魔と見抜いて戦うことは容易ではない。駅前一等地の銀行が当然というのは、経済最優先の象徴ではないのか。経済人だけではない。われわれ庶民も拝金宗ニヒリズムのとりこになっているのでないのか。

 本当の金持ちは、もっとつつましく奥ゆかしいものだろう。どこかにおられるにちがいない。

「耳あるものは聞くべし。金あるものは使うべし」と文豪ゲーテが警句を残している。お金のほうが本当の使われ方を待っているのかもしれない。それを障げているのが人間だ。
(邦)








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