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社会を見る眼
 殺人少年を生んだのは?
  第29回 <1997年9月>

人間はいよいよ涯(はて)なき地獄の底に堕ちていく。
 14歳の少年が11歳の子どもの首を切り校門に曝(さら)した。そして「さあゲームの始まりです」「殺しをしている時だけは、日頃の憎悪から解放され安らぎを得ることができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる」と声明する。

 世の識者、マスコミは・殺しがゲーム感覚・・死に対する現実感が全くない・・いのちへの思いが稀薄・などと分析する。しかし、殺しの感覚がどうして生まれたのかわからない。

 ある出版社は少年の顔写真まで掲載した。「この事件はいまの少年法では納まらない凶悪事件だから少年の人権保護に執われる必要はない」という論理のようである。

 これでは少年の犯行声明と本質的に変わらないではないか。少年の殺しの感覚がそれを報ずるマスコミにいつの間にか波及しているではないか。この怖ろしさに気がつかない。そのほうが怖ろしい。自分の感覚、自分の知覚、自分の意志だけが行為の絶対基準としている愚かさ、傲慢さ。事件の結果を報ずる手段だけが論じられて、なぜ殺しのこの感覚だけが絶対化されるのか。それがわからないのだ。

 少年は何かを訴えようとしているのだ。それがわからない。

 事件は果である。果を生むには因がある。個々の因、個々の縁(条件)の分析も大事だが、この少年を生んだ根本因縁はなにか。それがわからなければ全部他人事(ひとごと)で終わるだけだ。

 この少年を生んだ根本因はわれわれ日本人一人一人にあるのではないか。

 人生をゲーム感覚で生きているのはこの少年だけか。死に対する現実感覚がないのは誰のことか。いのちに対する熱い思いがわれわれにいまあるか。経済最優先のニヒリズムで生きているだけでないのか。

 実は、いのちのほうが自分より先に与えられていたのに、自分があってそれからあとにいのちがあると錯覚している。現代のいのちに対する感覚喪失はこの少年だけではない。われにある。殺しの元凶はわれにある。
(邦)








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