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社会を見る眼
 
  第28回 <1997年7月>

4月24日、臓器移植法案が衆議院を通過した。私たち一人ひとりに関わる重大な問題を抱えながら、参議院に送られ、6月17日修正案を可決した。衆参両院とも十分な討議を尽くしたとはとても思われない採決である。
 ちなみに、1987年スウェーデンで脳死を人の死とする法案が採決されたが、それには60人の議員が意見を述べ、五時間にわたる議論が重ねられたという。

 だいたい人の死を法律で決めざるをえないことがなじめないのである。人間の自然な生命感覚が医療技術の要求についていけないのでないのか。大多数の議員は「困った困った」と言いながら採決したそうである。困ったときはもっと時間をかけて、生死の感覚と思想をお互いにぶつけあうことが大切である。

 たしかに現代の医療技術によって、私たちは延命の恩恵をうけている。しかしその反面、延命医療は自然のままなる生と死を許さなくしてしまった。

 脳死を人の死と決めるのは、もちろん臓器移植ということがあるからである。移植する臓器は生きた健全なものでなければならない。それには脳死の人に、いま死んでもらわなくてはならない。それは人工呼吸器の管をはずすという行為がともなう。脳死の人は死んだという法律をつくれば殺人罪に問われることはなくなる。しかし、管をはずしたという殺しの事実は事実である。人工呼吸器をつけて活(い)かすも、それをはずして殺すのも、活殺自在はその人のいのち自身の自然なる要求からではない。

 脳死は死であるのか。臓器提供を待つ人を活かすための殺であるのか。

 いのちを生きるとは、生まれそして死する。また、生きるとは他の生を殺して生きることでもある。殺にはどこかに後ろめたい罪の臭いがただよっている。だから、人間のいのちなのである。この罪の臭いは法律では消せない。消そうとすれば、いのち自らが懐(いだ)いている尊厳性もまた、その罪業性(ざいごうせい)をもいよいよ見えないものにしてしまうであろう。問題は深い。
(邦)









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