ここ数年来、葬式を自宅で行う人が東京ではほとんどなくなった。都市の住宅事情の中で多くの会葬者がみえるので、その接待のために式場を借りなければならない。これもやむをえないことであろうが、何だか落ち着かない。しっとりと故人を憶(おも)う葬式が少なくなってしまった。みんな会社の社葬みたいになってしまった。ひとりのいのちが終わるとは何なのか。坊主も葬儀社も深く考えなければいけない。
年回の法事もほとんどがお寺で行われる。その法事に招かれた人で定刻の二時間も前に来られる人が時たまある。遅れてはいけないからと、よほど用心深い人なのか、気がせいている人なのか。それにしてもそれを迎える寺のあるじのほうがあわててしまう。こうなると、いまにお寺も食堂のように『只今準備中』と札を掛けることになりかねない。
さて、わが家も含めて最近、自宅にお客をお招きして接待することが少なくなったようである。お客さまに心を開いてわが家の味を味わっていただくという習慣が少なくなった。お客を招くのも、外へ出かけて接待までもお金で買って専門店に委(まか)せてしまうという傾向である(そのお金が大変であるが)。
ちょっと人を自宅にお招きするにも、その家のあるじ(特に主婦)は大変である。でもその隠れた大変さが、ほっくりとした温かさを生むのである。それが人をもてなす原点であろう。料亭やレストランにも洗練された接待の文化があるが、庶民の生活の中にも温かいもてなしの文化があるはずだ。お客さまを自らの手でもてなすことがなくなると、招かれたお客としての常識もわからなくなるものだ。
─確か、小林秀雄は「常識と常識的というのは違う」と言っていた─
一服のお茶、一品の料理にもそのあるじのま・こ・と・が隠れているものだ。そんなもてなしのできるあるじになりたいものだ。そして人のもてなしがわかる客人となりたいものである。
(邦)