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社会を見る眼
 忙がしい 騒がしい
  第24回 <1996年11月>

近ごろ電車や道路でところ構わず急に鳴りだす、あの携帯電話に驚かされる。しかも一人で大声で話しだす人がいる。耳ざわりな騒音がまたひとつふえたようである。
 多忙な日本人が、電話機の便利さのためにいよいよ忙しくさせられている。使っているつもりの電話機に、四六時中使われている自分の人生とは、いったい何であろうか。この問いのほうが実はもっと緊急な一大事ではないか。

 こんなことを感じていたら、日本経済新聞(9月7日・夕刊)のコラム欄に同じようなことが載っていると教えてもらった。

 開高健が出した「ブルジョワとは何か?」という問いに、パリのインテリはこう答える。「家とか財産とか、いろいろあるかもしれないが、私の思うに、いかに静かに暮らせるかという点がブルジョワではないか」と。

 コラムの筆者も、携帯電話のうるささをとりあげて、「欧米の金持ちは、電話で呼び出されない休暇を最高のぜいたくとする。いまの日本人は、電話の便利さが非人間性と裏表であることを自覚しておかないと、いつの間にか、心身ともに機械に隷属することになる」と述べている。

 忙しいというのは、なにかにいつも追われている意(こころ)である。うるさいというのは、いつも音を聞かされている耳である。それは、自分が生き、自分が聞こうという主体性を失っている時である。

「忙中(ぼうちゅう)閑(かん)あり」あるいは「随処(ずいしょ)に主(しゅ)となる」という。それは忙しさの中で、どこにいても自分が生き、自分が聞く主体性を確保することであろう。追われる仕事を機縁として、逆に自分がその仕事を追う「時」を楽しむ。そんな余裕がほしい。そういう人生を生きたい。こうした生き方がどうしたら可能か。先人たちは生涯をかけてそれを求めた。それが仏道の歩みであったといってもよい。

 釈尊は、人間の精神生活の究極の豊かさを「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」という真の寂(しず)けさにおいた。真に主体的に生きるとは、寂(しず)けさを生きることではなかろうか。
(邦)










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