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社会を見る眼
 仏教者が問われていること
  第23回 <1996年9月>

司馬遼太郎があるお寺での講演で、
「日本の仏教は試されるときを迎えている。愛と倫理をもたないと、仏教は単なる心の支えで終る」

と言っている。(『週間朝日』/2月26日号)

 この講演の大乗仏教についての受け取り方には、多少疑問もあるが、この指摘は謙虚に仏教者として受けとめなければならない。

 この人間愛と倫理の問題について、親鸞も弟子たちへの手紙に、『とも(友)同朋(どうぼう)にもねんごろの心』と勧めており、更に『煩悩具足の身なればとて、心に思うまじきことをも許していかにも心のままにあるべしと(は)、不便(ふびん)[あわれ]』だと戒めている。

 さて現代に戻そう。あの阪神大震災のとき、個人としての活動はともかく、わが大谷派教団はどこまで『とも同朋にもねんごろ』なるボランティアが実践できたであろうか。 現代は経済社会である。倫理は「金(かね)」に象徴的に表れてくる。わが教団の長年の混乱と紛糾には、いつも裏に『財』がからんでいた。これは倫理の問題である。まことに仏教者として慚愧(ざんき)にたえない事実である。

 これは大谷家だけの話ではない。近ごろは宗教法人の会計調査のために税務署が寺へ入ることが当然となった。これは税務署が、寺院の会計の公正処理〔倫理〕を調べるという形で、実は世の信徒を代表して住職の信心そのものを問うているのでないか。信心を問うのは信心のコトバで問うのでなくて、経済という倫理、人間という愛をもって問うているのである。

 人間は愛と倫理に破れて仏教を求める。その教えに生きる仏教者が世俗を生きるにはもう一度、必ず愛と倫理が問われてくるのだ。

 清沢満之(きよざわまんし)という明治の先人は、「仏者は世間と出世間の二種の世界に住する者たるを要す」といい、世間からの軽しめ侮りに対して、「なんぞ仏教者は自重せざるや」と叫んだ。仏教者はいま世間の問いに耳を傾けて自分自身を大切に自重すべき期(とき)である。
(邦)










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