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社会を見る眼
 
  第20回 <1996年3月>
 道路(みち)は人が動くためにあるのに、そこには動かない人でぎっちりと詰まっている。数十人ずつのグループがいくつもいくつも、ただ群れ集まって道路を占拠して駄弁(だべ)っている。その街全体で恐らく万を超える群れである。それがどこかへ向かって歩くのではない。ただ身を寄せ合って動かないでいるのである。

 たまたま去年の暮れの夜、新宿歌舞伎町周辺を通りかかったときの光景である。ちょうど忘年会のコンパが終わって、一時に街路(まち)に店から押し出された学生たちであろう。その群れの中をすり抜けて歩きながら、私は何か異様な怖れをすら感じさせられた。 人(ひと)が生きるとは孤独で寂しい。時として人はそれに耐えかねて群れ集まって癒(いや)し合おうとする。群れるのは雀や鳩ばかりではない。

 それにしてもなぜこの群れの中から・俺は先に行くぞ・と言って独りで歩き出すものがいないのか。ただ誰かの指示を待っているらしい。この症候群の学生たちは何なのか。

 「いまの若ものは動か、な、い、のでなくて、動け、な、い、のだ。それは人間のイデオロギーに対する不信が根深くあるからだ。動け、な、い、というのは、実は『真実(ほんもの)』を求めているのであろう。」

 こんな意味のK先生の話を紹介してくれた友人がいた。なるほど、そういわれればうなずけることである。一年前のあの阪神大震災のとき、頭であれこれ考えるより先に身を動かして、ボランティアに馳(は)せ参じた多くの若ものたちの姿があったではないか。

 誰かの指示を待ち続ける群れは、甚(はなは)だ危険な一面をもっている。どんな指示で動かされるかわからないからである。いまの日本人は、老いも若きも独り歩きできないで群れて生きようとしているのではないか。

 自分の魂の奥底から突きあげてくるような真実(ほんもの)への要求に、素直になって動く。これは難しいことだが、そこから「独り生きる」ことが始まる。そして独り生きる寂しさから「共に生きる」世界が見えてくるかも知れない。 (邦)


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