1996年の新春を迎えた。いま世界は価値観が大転換する真っただ中にある。今年はいったいどんな年になるのだろうか。誰もが深い不安に包まれて新年を迎えたことである。
それにしても、昨年は歴史に残る未曾有(みぞう)の事件があい継いでおこった。人間として生きることの価値が本質的に問われた年であった。だから誰の魂(たましい)も地震のように大きく揺さぶられているのである。
我々は、この悲惨な過去をこれからもずっと見据(みす)え続けていかなくてはならないであろう。
あの近代都市神戸を襲った大地震。「諸行無常(しょぎょうむじょう)」が単なるお説教の言葉でなくて、自然の道理だということを、安逸(あんいつ)を貪(むさぼ)る現代人に大地が身を震わせて警鐘(けいしょう)したのかもしれない。自然とは人間にとっていつも都合よく美(うる)わしく、都合よく清(きよ)らかなものとは限らないのだ。自然は人間の都合や計算を超越した用(はた)らきである。自分に従って自然があるのではない。自然に従って自分があるのだ。山や海だけが自然ではない。毎日の生活が実は自然の道理に従って営まれているのだろう。
そして、あのオウム教の事件。これも単に社会秩序を乱した刑事事件だけでは終わらない。宗教の教団人が無差別殺人を犯した。そこに人間の不気味な闇黒を初めてみた。
宗教とは、自然と同様に人間の都合のためにあるのではないのだ。人間にとって都合よく美わしく清らかである筈(はず)だという我々の思い込み、それを麻原教祖が壊滅(かいめつ)しようとした。本当の宗教とは何かを、暴力の形で我々につきつけてきた。暴力は勿論(もちろん)許されるべきでない。しかしその問いまで不問にできないであろう。
人間は、その時その時の条件次第で何をしでかすかわからない・不気味な闇黒・を抱えて生きているものである。宗教なるものへの、人間の都合よき美わしさ清らかさという思いが破られた。実はそこからが大事なのだ。思いが破れたところから本当の宗教への道が始まるのだろう。
(邦)