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社会を見る眼
 オウム教から問われていること
  第16回 <1995年7月>

「既成の仏教は風景に過ぎない。何の魅力も感じなかった」
 オウム教に惹(ひ)かれて入信した若ものが、こう言ったという。瀬戸内寂聴さんはそれを聞いて、「僧侶(りょ)の一人として、私は恥ずかしさと口惜(くちお)しさに唇を噛むしかない」と告白している。(『AERA』5月25日号)

 純真で正義感の強い若ものが現代社会の状況を生きるということは、ふと気づけばなんと空(うつ)ろで虚(むな)しいことか。みんな計算がついて先までみえてしまっていると思い込む。この思い込みの中に、空虚感がひろがってくる。

 そのなかで、既成仏教のほとんどが観光寺院・葬式寺院で終わっているか、あるいはそれを説く仏教の中味(なかみ)も教養仏教(知識としての理知仏教)か修養仏教(倫理としての善悪仏教)に留まっている。仏教本来の、人間の苦悩する魂の救済を呼びかけるエネルギーを失ってしまっている。これこそ仏教者として、如来に慚愧(ざんき)すべき一大事である。

 しかし、他面、こんどのオウム教事件は、すべての日本人に、初めて「宗教とは」を真剣に問い直すことにもなったのでないか。

 わが国では、明治以降、公教育のなかから『宗教』をオミットしてきた。宗教といえば、神秘のベールの彼方に追いやり、自分の実生活とは無縁のものとしてきた。自分の理知だけを頼りに生きていけるとしてきた。だから自分が生きることと宗教がどう関わるのかを問うことも忘れ、したがって、何が真実(ほんと)の宗教なのかを見抜く眼も失ってしまった。

 特に戦後は、経済最優先の眼だけで、宗教への眼は幼稚園児に等しいくらいしか育ててこなかった。オウム教は幼稚園児にいきなり強烈な神秘の酒を飲ませたようなものである。

 事件としては、麻原教祖の被害妄想がサギ師としての天性によって暴発(ぼうはつ)したのであろうが、教祖を逮捕したから解決したとはいえない。その根はまことに深い。日本人の精神生活がいまから問いかえされているのでないか。
(邦)










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