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社会を見る眼
 『いじめ』は私の問題
  第11回 <1994年9月>
 学校での『いじめ』問題が、日常化して久しい。しかし、収まるどころか、陰湿化、残酷化し、新しい『いじめ』も出てきて、自殺者が出たり、傷害致死事件まで起こすようになってきている。

 なぜ、学校での『いじめ』が起きるのだろう。大きく分けて、三つの側面が考えられると思う。一つは家庭、一つは学校、もう一つは社会である。この三つの中に、共通して見えてくるのは、極端な言い方をすれば、己おのれの道に、なりふりかまわず、貪欲に、忙しく働く大人たちの姿ではないだろうか。

 一生懸命働くことは大切なことであり、尊いことである。しかし、己の道を突っ走るため、ある時は人を跳(は)ね除のけ、蹴落(けお)とし、踏みつけて、周囲を見ることがない。というより、周囲が見えない大人たちの姿。これは、新幹線や、高速道を自動車で行くようなもので、道端にかれんに、精一杯咲く花は、見えないし、ただ踏みつけるだけである。

 子どもたちの感覚は、純粋で鋭敏である。道端に、精一杯咲き、踏みつけられていく花に自分たちをダブらせているのではないだろうか。「人生ってなあに」「なぜ、働くの」など、なんとなく感覚的につかんでいる疑問について、語り合いたいと思っても、全く振り向かない大人たち。『いじめ』は、その子どもたちの、ねじれた、痛みのサインなのかもしれない。

 私たちは、自我が強く、自己中心的である。発想の中心には、常に己がいて、正しく行動していると考えている。仏法に出遇あって、はじめて、丸裸の己を見せつけられ、周囲を見やる智慧(ちえ)をいただき、踏みつけられて涙している子どもたちを発見する。『いじめ』は悪い。その行為は問われ、矯正されなければならない。しかし、根本的に解決していくためには、私たち大人が絶対の依り処に目覚めて、その生き方を問い直し、自分の問題としていかなければならないのではないでしょうか。
(昭)


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