今年のお米の作柄はどうなのだろう。昨年が百年に一度といわれる凶作で、今年三月から四月にかけて、あの異常な米騒動があっただけに、各層の人たちが、今年のお米の作柄を心配している。今年も凶作だったら、また、「私だけは国内産米を食べたい」として、あの異常な米騒動が起きるのだろうか。
確かにあの時は、国内産米を確保しておきたいという欲望以外、外国産米の輸入が遅れ、国内産米は出荷を手控えるなど、一時はお米屋やスーパーにお米がなくなり、店を閉める事態が発生して騒動を大きくした。
しかし、かつての飢饉や、第二次大戦中、戦後とは違って、お米以外にパンや麺類など代替え品がふんだんにある中での出来事で、全く異常であった。そして異常はその後も続いた。タイ米を中心に外国産米が国内産米とセットで販売されるや、鳩の群がる私の近くのお寺の境内に、タイ米が遠くから見て白く盛り上がって見えるほど、固まって撒まかれていた。また、あちこちのゴミ集積所には、買ったままの状態でタイ米がまとまって捨てられていたともいう。
「私たちは、生きるために食べるのか、食べるために生きるのか」。あの時は、この古くて新しい問いに、あらためて考えさせられてしまった。自分の口に合わないからといって、捨てることはない。驕慢(きょうまん)、傲慢(ごうまん)である。いま、食べられるということは有り難いことだ。
私たちは、幸せを求めて日夜、悩み、悲しみ、苦しんで生きている。しかし、本当の幸せを求めるということは、誰でも、いつでも、どこでも、どんな逆境下でも、幸せを感じられる心根を開発することなのではないのだろうか。
美味しいものを食べても一瞬である。また、使い切れないお金や、地位、名誉、家族があっても、私が幸せを感じられなかったら、幸せを支える依(よ)り処どころにはならない。どんな逆境にあっても、幸せが感じられる心根の、本当の依り処を求め、聞いていくために、私たちは食するのではないのだろうか。
(昭)