都会では、帰るべき家をもたないで、深夜営業の店に居住している人が増えているという。マスコミは例によって、「ネットカフェ難民」というレッテルをはっている。たしかに、明日への不安をいだきながら、都会の夜にひっそりとうずくまっている人たちがいる。
そうした今日の特異な状況は、政府の雇用政策や労働者総体の力量の低下という政治的な側面もあるが、より深いところには、生活の液状化ともいうべき、人が生きることそのことの形があいまいになってしまったという問題があるように思われる。
「家族という器が壊れてしまった」と斎藤環氏は指摘する(毎日新聞6月17日)。人は家族の中で生まれ、家族を作りながら育っていく。そして家族の中で死に別れてゆく。人世(生)の器が家族といえる。しかし、剥き出しの煩悩がうずまく坩堝も家族である。
「親しき仲にも礼儀あり」というが、家族こそお互いが言葉をつくし、心をこめなければならない場所であろう。家族は「ある」ものではなく「作る」ものだ。
親鸞は、家族に縁の薄い少年期だったが、終生、親鸞と妻の恵信尼は互いに観音菩 の生まれ変わりとして尊敬しあった。たまたま出会った二人が、夫婦として「如来の家」作りに生涯をつくしたのである。
ただし、家族の再生が今日の課題である一方、衣をかえた「家族国家の神話の亡霊」(『家族制度』磯野誠一、磯野富士子)には気を付けなければならない。