「まことにわれわれは、われわれ自身の生活を顧みますとき、それは完全に浄土を見失った生活であることを認めなければなりません。」(信國淳『呼応の教育』)
1964(昭和39)年に、大谷専修学院の入学式で語られた言葉である。
高度経済成長政策がはじまり、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開かれた。生活はまだ貧しかったけれども、明日はよりよい生活ができるだろうという「希望」があった。
いかに僧侶の養成学校とはいえ、いきなり「浄土を見失っている」と言われても、聞いている者たちは何のことかわからなかったと思う。
それから40余年、当時のういういしい学生たちも還暦を迎える年になった。私どもはあふれるほどの物にかこまれ、快適で便利な生活を手に入れたが、彼らはきっと言うだろう。「たしかに何か大切なものを見失っている」と。
「将来への無関心」(永六輔「無名人語録」)が今日の私どもの根本気分と言えよう。
私どもは「よい生活」を求めてきたが、戦後60年経ってはっきりしたことは、明日への希望がなければ「よく生きること」はできないということである。
生きることそのことの「究極的関心事」を親鸞聖人は、「浄土の真宗(まことのむね)」と教えている。