広報紙『サンガ』
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 老いとの対話
1999/5/29 <3 of 4>


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会場の様子

 新たな不安を与えて拒食患者に
 
 「ところがある事件が起きました。看護婦さんの勤務交代ですよね。今までなじみだった看護婦さんが全部総入れ替えになったわけです。ところが、これに素早く反応いたしまして、「病院が消えて無くなった」、「病院が消えてしまった」と、大騒ぎです。大興奮といってもいいんでしょうか。なじみの人たちが自分の周りから消えていくと言うことに対して、痴呆性老人は非常に敏感に反応いたします。逆に言えばですね、他人であってもなじみの関係を作ると言うことが痴呆性老人のケアには基本的な問題だと思います。安心を与える。何しろ不安ですからね。不安の固まりといってもいいですから。痴呆性老人といいますと、皆さん、ぼけてなに言ってもわからないとお考えかもしれませんが、とんでもない話でして、非常に過敏な、敏感な面を持っています。非常な不安。恐怖といってもいいでしょうかね。そしてやがてこの母親は、拒食が始まります。ご飯を食べない。拒食患者」
   
 患者は看護婦を見ている
 
 「ところが1組15人いる看護婦さんの集団なんですが、3人だけの看護婦が行きますと、拒食ではなくて、なんと大きな口を開けて食べるんです。その3人の看護婦さんだけは上手にご飯を食べさせる。やがて水を飲まなくなる。痴呆性老人の非常に大切な症状は、水を飲まないと言うことですね。水を拒否する。良く仏様に水を差し上げますですね。あれは何か本質的なことにつながっているような気がいたしますが。痴呆性老人にいかに水を飲ませると言うことは、もっとも大切なことですね。それでやっぱりその3人の看護婦が行くと、水も飲むしご飯も食べる。一般的な拒食患者ではないわけですね。拒食患者という一つの言葉でもってくくれない、つまり、人と人との関係の中で拒食という現象が起こっている。ある人に対してはちゃんとご飯も食べるし水も飲む。ある人に対してはそれをがんとしてそれを拒否するという使い分けをしている。何故か。非常に大きな問題です。私もよくわかりません。主治医に聞きましたら、『何となくわかるような気がするなー』と言うんですけれども、ほんとのところは良くわからない」
   
 患者が安心する条件
 
 「私の思いつきですけど、2、3言ってみますと、子育てをしておられる看護婦さん。3人とも子育てをして非常に苦労しておられる看護婦さんである。子供というのは非常に理不尽な存在ですからね。それにひたすら耐えるということを、身につけられておられるのでしょうか。

 それから、声の質の非常にきれいな方。一人は見事な秋田弁。非常に懐かしい方言です。方言というのは大切なもので、これを日本人が失いかけていると言うことはゆゆしき日本文化の問題だと思いますが。見事な方言を使って、しかも声の調子が、非常にこの柔らかくて、耳とその人の口との距離がですね、適当な距離があるようです。どうしてこの看護婦がと、ちょっと見ると普通の看護婦ですからね。ちょと見ましたところ普通の看護婦ですからね。で、じーっと見てました。耳元でささやくのではなくて、

(携帯のベルが鳴る「あ、ごめんなさい。私のです。何しろ100歳の老人を抱えていますから。絶えず携帯電話を持っていないと、いつ何時……)

適当な距離があるのですね。遠くの方からですね、『○○さん○○さん、今日はどお。今日は何月何日』、なんか言う看護婦にはこれはもう最初から拒否です。『私誰だかわかる』、なんてのは全く話になりません。『おバーちゃん、おバーちゃん』なんてのもだめですよ。ちゃんと『○○さん。○○さん』という声の調子に反応しているようですね。内容ではないようです。なにを言っているのかよくわかっていないので、内容ではなくて、

・声の調子、そして距離感、
・一般名ではなくて、ちゃんと個人の名前を呼ぶ。
・そしてしかも非常に子供を育てる中で苦労しておられる方たち。

そういうような事まではわかるんです。それ以上はよくわかりません」
   
 人間を見抜く研ぎ澄まされた神経の持ち主
 
 「とにかく、ボケ老人は、人間の本質を見抜く力が、非常に研ぎ澄まされている。いかに上辺で優しくですね、優しげに、声をかけたとしてもそれはもう、見抜いてしまいます。なんか全部そぎ落としてしまった人間の本質、を見抜く力が非常に強いように思います」
   
 次なる症状・悪口雑言
 
 「やがて、このは母親はものすごい汚い言葉を次から次へと発するようになります。『このばかやろー・おまんこやろー・でっかい・でっかいはなだねあんたのはなは』人のいやがりそうな言葉をですね、タイミングよく言う。主治医が『どうですか』と声をかけますと、『この藪医者』。『安月給』と実にタイミングがいいもんですから、この主治医は『これはどうもぼけちゃせんぞ、呆けてはいないようだ、あんなに早く反応するのは呆けじゃない』というようなことを言い出す始末でして。もう、罵詈雑言ですね。あの貴婦人がどうしてあんな醜い言葉を耳にして、覚えているのかというのが、わからないですね。ほんとに、私でも知らないようなですね、下品な言葉を次から次へと発するようになります」
   
 それでも好かれるボケ老人
 
 「ところが、看護婦さんは、割と憎まれないんですね。『このおばーちゃん大好き』なんて看護婦がいたりして。鼻の穴がでかいとかなんとか言われながらもですね。『オー元気、元気』なんてですね非常に愛される。黙ってるような、おとなしい痴呆性老人でも、嫌われる人もいますね。私は嫌われるボケ老人になるのか、好かれるボケ老人になるのか少し不安でもありますが、できることなら嫌われたくないと思いますが、これは、しょうがないですね。もって生まれて本性ですからね。諦めるしかありません。しばらく、半年くらい続きましたですかね、ものすごい醜い言葉が発せられる」
   
 言葉が消えた、見えない心の内
 
 「やがて、言葉が、だんだんだんだん少なくなります。そしてほとんど言葉が消えます。なにもしゃべらない。なにを声をかけても返事もしない。何にもしゃべらない。痴呆性老人の心の内というのは、まだ私たちにはわかっていません。精神分裂病者の有り様というのは、最近少しずつわかるようになって参りましたが、痴呆性老人がどんな気持ちで、日々を生きているかと言うことはまだ未知の世界ですね。言葉を失います」
   
 最後に歌が残った
 
 「そして最後になにが残ったか。歌が残ります。さっきの、坂上次郎さんの、すわさんとおっしゃいましたか。カラオケでずいぶん歌われましたね。ああいう歌でなくて、童謡が残る。この母親はそうでした。深夜たどたどしく、節は音痴でありますけども、お手手つないでとか、夕焼けこやけ、うさぎ追いしとかの歌を、とぎれとぎれで歌います。君が代も残ります。夜中にとぎれとぎれの君が代は、聞こえてくると、ちょっと不気味なものを感じます。最後に残るのは歌です」
   
 さて、私に残る最後の言葉は
 
 「ここから先は私の妄想なんですけども。もし、本物のお坊さんがいたとしたら、南無阿弥陀仏という言葉が残るんでないかと。これが本物のお坊さんかどうかは、お坊さんが呆けたら言語に現れる。また信者さんがおられたら、ほんとに心の中から南無阿弥陀仏を言っておられるとするならば、もしかしたら、痴呆性老人になって全部言葉を失っても、最後に南無阿弥陀仏が残るかもしれない。私何人かの痴呆性老人になったお坊さんを診ましたけども、一人のお坊さんは、『ありがとう』という言葉が残ったんですね。これは家族にとっては非常にありがたいことです。近所の人が何かしてあげると『ありがとう』というんですね。家族はもうそれで満足する。気持ちがいいわけですね。ところが何かしてあげると『こんちくしょう』というと、これはあまりいい気持ちしません。ところが、このお坊さんには本心からありがとうという言葉が最後まで残ったようですね。おそらく信者さんの中にもほんとに、その人のほんとに身に付いてしまっている言葉であるならば、残る残る可能性は残されている。歌が残るんですからね。南無阿弥陀仏が残らないとおかしいですよね」
   
 死・ほっとして・やがて涙
 
 「やがて、母は肺炎でなくなりました。私たち夫婦はホットいたしました。毎週毎週ですね、休み無いですからね。そしてあるお掃除のおばさんが、お参りに来ていただいて、あの部屋に行ったらおばちゃんがいなかった。『いなかったのよ、いなかったのよ』と言った。このとき私初めて涙が流れました。この母親とはそれほど深い関係のない人が思ってくれた。その人がいるべき所にいなかったという、これが、死の本質であるし、同時に、死んでからその人の思い、その人の面影、その人の本質、その人らしさというのが、生きた我々につながってくる。それを、私が生きている限りこの母親への思いというものはいつまでも消えない」
   

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