歳のせいか、「本屋」がまるで変わってしまったせいか、「本屋」へ行くことがめっきり減った。これはよくないことだと思っている。昔のように「本屋」へふらりと入って、手当たり次第に、まったく専門外の本まで手にとってペラペラめくって立ち読みする至福の時間は持てなくなった。
あまりにも大量の本、あまりにも大量の人、そして山積みされた同じような本(ベストセラー)に圧倒され、老人が時を過ごす場ではなくなった。大量生産大量消費の世の流れに巻き込まれ、大勢の人が読んでいる本を買わされ読まされるのかと思うと、自然に「本屋」を避けるようになってしまう。しかし長年しみついた習性なのか、つい本屋へ入ってしまうことがある。
私の帰り道に新しい「本屋」ができてしまった。つい迷い込むことがある。そしてつい二、三冊本を買ってしまい、そそくさとそこを去る。その一冊。三田誠広『団塊老人』。まず名前が眼に飛び込んで来た。本が売れるか売れないかはネーミングにある(これも資本主義の原則)。「なんだこりゃ!」と思った。
まず思い浮かんだのは数名のおばさん(ということにしておこう)集団である。最近、劇場へ行っても美術館へ行っても映画館へ行っても小旅行しても食堂へ行っても、私の行くとこ行くとこその「おばさん」集団によって占拠されている。彼女らの特徴は大声でしゃべる。きりなくしゃべる。笑う。よく動く。元気である。派手な衣装。ブランドもののバッグなどなど。
今や日本の文化活動は彼女らによって完全に占拠された。アーサーミラーもブレヒトも、そしてレイモンド・カーヴァーまで完全にである。彼女らのみならず日本人はそういう民族なのだろうか。ちょっとした出来事、例えばタレントのスキャンダルに群がるマスコミ(これはさすがに男が多い)とて同じ。いやもっとひどい……。
そして三田誠広。私の思い違いであった。これはまじめな本である。「団塊の世代」の団塊であった。「あと数年たてば、団塊の世代が定年を迎えます。何ものも生産せずに、ひたすらメシを食うだけの人々が大量に存在する社会。このイナゴの大群の発生で日本という国の資産がたちまち食いつぶされます」とある。