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老いるについて
 「母の死」
浜田クリニック 浜田晋 第69回 <2004年5月>

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 平成十五年十二月十九日、私の母は死んだ。享年百四歳、大往生である。南国土佐には珍しく小雪が舞う日であった。

 二十二年間主治医を続けてくださった畏友・岡部健一郎医師が私に、「先生、午後八時三十分ということにしておきましょうか」とおっしゃった。呼吸は止まったり動いたり、心電図はいつまでも動き続けた。下顎呼吸がはじまって実に三日も生と死の間を行ったり来たりした。「こればあのことで(これ位のことで)死んでたまるか」と言ったのが二年前である。「お母ちゃんはパパ(夫)が嫌いじゃった」と言ったのが百歳の頃だった。七十年夫を憎み続けたのである。

 私の四つ年上の兄を偏愛し、その兄が十六歳で肺結核で死んでから、母にはよりどころがなくなってしまった。「お兄ちゃんが生きちょってくれたら私は幸せじゃったのに。お兄ちゃんは頭もええし、顔もきれいし、素直なええ子じゃった」と言い続けた。

 「晋? 晋はへごな子(悪い子)で、顔もようないし、乱暴な子でお兄ちゃんをよう撲りよった。ええ子が先に死んだ」と数年前まで私たち夫婦に向かって大声で話した。

 そんな母が晩年確かに変わった。

 高橋三津子さんが付き添って、十二年看とってくださったからである。最後は私たちのことを忘れてしまっても、高橋さんを「お母さん、お母さん」と追い求めた。高橋さんもまるでわが子をみるように介護してくださった。「人を信じる」ことがなかった母が、はじめて「高橋さん」に「母」(以上か?)のごとく、大きく抱きしめられたのである。鶴見俊輔先生の言う「その他の関係」というものであろう。

 死ぬ一カ月ほど前、私は呼ばれ、死後どうするか葬儀社、親戚、総婦長らと話をした。病院側としてはご好意である。ところが高橋さんは怒った。「まだ一生懸命生きようとしちよるに、何っということを!」と言うのである。十数年自分のやってきた仕事を侮辱されたと思ったようである。私は言葉を失った。

 母は焼かれた。そしてお骨になって私は愕然とした。頭蓋骨の一部(カトレアの花でピンクに染まった)を除き、ほとんど形をなしていない。なぜかのど仏だけはしっかりしていて、私はそれを大切に一定の場所に納めて、すべて終わった。


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