友人、島成郎(しましげお)が死んだ。知る人ぞ知る60年安保の全学連指導者である。あの樺(かんば)美智子さんが22歳で国会に突っ込み死んだ闘いから40年が経ってしまった。今年6月10日、樺さんの追悼集会で、島はいつものしゃがれ声でこう語った。「我々は樺さんより40年も多く生きた。いま世界をどう見つめ、どう闘っていくか、あの時代の真剣さを見つめ直したい」と。活動家の彼を私は知らない。共産主義も、それをスターリン主義と批判し、新しく組織した共産主義者同盟(ブント)も私には無縁の世界だった。
私が彼を知ったのは、1968年、私が東大で勤め出し、東大闘争のさなかだった。当時東大精神科教室はその渦中にあった。よく会合がもたれ、当時国立武蔵療養所に精神科医として勤めていた島は、時々そこに参加していた。みんな緊張し、暗く、激しい語調でしゃべっていたが、彼は明るく、悠然(ゆうぜん)として、笑顔が美しく、私にはきわだって大きく見えた。その論旨は明解で、政治おんちのわたしにもよく理解できた。ハンサムで、男っぽく、そして何よりもやさしく繊細だった。私は好きになった。とてもえらい闘士という感じを受けなかった。当時はまだ遠くから彼を眺めていただけだった。もちろん親しい関係でもなかった。いつ頃から彼と親しくなったか、覚えがない。私が東大闘争に見切りをつけ、1970年、東大を去って、地域活動に入って、東京中をかけずり回っていた頃、彼は私の行動を眺めていたのであろうか。
その後彼は沖縄へ渡った。彼なりの想いがあったのだろう。そして何年か経って、私は彼に呼ばれて沖縄に講演に行った。私は目を見張った。数年の間に彼は沖縄の保健婦や役所職員や家族たちを含めて地域をすっかりオーガナイズしていたのである。それも島1人の人間的魅力に負うところが大きいだろう。地域医療のキーワードとは何か。「地域の中で一生懸命働いている人を立てること」である。「ここにこんなすばらしい人がいる。こんなすばらしいことをやっている……」と。多くの人を集め、あのがらがら声で吠え、多くの人々の手をにぎり、あの眼でやさしくみつめられたら……たいていの人は彼にほれてしまう。私もその一人だった。ところが彼は、私を「わが師」と呼んでいたことを葬儀の日、奥さんから聞かされた。私は11月11日青山斎場で彼の弔辞を読みながら泣いた。
老いとは次々と友人に先立たれることである。