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老いるについて
 介護という仕事(6)
浜田クリニック 浜田晋 第47回 <2000年9月>

 介護は感情を伴った気配りと、「労働」という二面性をもつ。そしてそっと死によりそうことである。「労働」に対しては近年さまざまな機械(福祉機具)が開発された。やがて介護という仕事を上手にやるロボットさんが出現するかもしれない。おむつの進歩一つとっても眼をみはる程である。ただ機械には、気配りはできない。お年寄りの気持ちをわかるわけがない。介護をうけることがどんなにつらいことであるか、心ぐるしいことであるか、そんなことはおかまいなしである。

 やはり基本にはどうしても人間関係が残る。ただことが実にやっかいなものである。とくに「家族」となれば、長い歴史を背負っている。「女ぐるいばかりして家をかえりみなかった父をなぜ私が…」とか、「ヒステリックに夫の悪口ばかりどなりちらして、家族のことなんか考えることがなかった母をなぜ私が…」とか、いろいろな感情がどうしても噴出してくる。

 介護はいつ果てるともない長い長い道程でもある。不条理な仕事である。どだい家族に介護させることは無理な仕事なのかもしれない。はじめは一生懸命やっていたとしても、だんだんとつかれてくる。介護する人も年をとってくる。なんのみかえりもない行為が延々とつづくとなれば、「豊かな美しい老いを生きている老人たち」をみると無性に腹が立ってくる。「ええ加減に死んでくれへんか…」と思うものである。「美しく老いるために」などという本を本屋でみかけると怒りがこみあげてくる。

 それに介護には近年とてもお金がかかる。あの見事な「おむつ」だってとても高価である。私の母親は付添いさんをつけるようになって十数年がたつので、お金に換算すると6000万円は越えているだろう。家が一軒たっている。まさか101歳まで生きようなんて考えてもいなかったからこのざまである。「おめでとうございます」「お幸せですね、この年になるまでお母さんが生きておられるなんて…」といわれると、腹が立ってしようがない。

 しかし、この「果てることない仕事」が、私の生の源泉なのかもしれない。母が死んだら、私もぽっくり死ぬかもしれない。やむを得ないことである。これが「生きる」ということか。

 ついみにくい私心が出てしまった。読者を不愉快な思いにさせてしまったことをおわびしておこう。

 「介護」という仕事は私という精神科医でさえも、このような生のどろどろした感情をわきたたせる魔力を内在している。一切のマニュアルや「かくあるべきこと」とか「こうすればうまくいきますよ」とか「美しく親を看(み)とった」とか、そんな美しい言葉をすべてはぎとったところから始まる仕事なのである。そこで「私」がためされる。


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