老親(ろうしん)を看みとること、それは昔あたり前のことであり、ノウハウを論ずることなどは不要であった。ところが「家族」のありようがすっかりかわり、世界に例を見ないように老人がふえ、「家族」だけで親を看る時代は終わりつつある。「社会」で看る方法が模索されだした。そして「介護保険法」なるあやしげな法律ができて、いよいよこの10月から申請がはじまった。
これに70歳をすぎた私のような老医までかりだされる始末で、今頭をかかえている。この話は今ここでふれることは出来ない。なにしろ私にとってはふってわいた話で、自称老人精神医学の「専門家」や私のクリニックに来ている大正大学教授竹中星郎先生(これはまちがいなくわが国で老人精神医学のピカピカの第一人者)にも何のお問い合わせもない中で出発しようとしている。すでに出来上がったものを「お上」が、これでやれということにあいなった。
わが国は不思議な国である。「痴呆」が重要な鍵をにぎるであろう「介護保険法案」に「痴呆の専門家」の関与なく(一部の御用学者が関与しているかもしれないが誰かわからない)どんどんと進行していく。昨今の国会と同じ状況であり、それは学者たちもマスコミも一般市民も無縁である。「この道はいつか来た道」を思わせる。話をもどそう。
「家族の看とり」をもう少し広げて、「家族・その他の関係」というテーマで、鶴見俊輔先生を中心に春日キスヨ(『介護とジェンダー』1997家族社)、徳永進(鳥取日赤病院内科医)と私の4人が1998年12月20日に集まって討論した。それが『いま家族とは』という単行本で、1999年2月岩波書店から出版された。しかし反応がない。
世は介護保険法をどうすすめるかでてんやわんや。その基本にあるはずの「介護とはどういうものなのか」、「今、介護を通して家族とは何か」の中味の問題を論じられることが少ない。「形式」をととのえることばかりである。ケアマネージャーという新しいわけのわからぬ人種をつくって、84項目にわたって老人や家族に問い(そんなことで真実がわかるものか!)、それをコンピューターで分析し、ケアプランを作成し、介護度を6つに分類し、老人たちを六組にわけて、まとめて「公平」なサービスを提供しようとしている。しかも国民から介護保険料をとり、おまけにサービスをうける側は一割負担である。ある老人はつぶやく、「厄介者だから死ね、ということでしょう」と。
おそろしい時代がはじまろうとしている。