(前号につづいて)
中年のサラリーマンは話しつづける。
「母はもともと頑固で言いだしたらきかず、夫婦仲も悪く、あの人から私は母性を感じたことがありません。私が戦地からやっと帰って来ても、笑顔でむかえてくれませんでした。そんな人だから呆ぼけてもかわいそうだと思ったことはありません。父が死んだ時も、『私はあなたたちの世話にはなりませんよ』とさっさと実妹(じつまい)の家に行きました。T県で大きな旅館を経営しているんです。のんびりした田園都市で、母はそこの暮らしを楽しんでいたようです。妹とは仲が良かったようです。ところが、妹は癌で死んでしまって、跡取りもなく、他人手にわたってしまって、母は急に行き場がなくなったんです。
やむなくひとりっ子の私が引き取ることになってしまったんです。都心の2DKの狭いアパートで、やっと4 畳半の部屋をあけたのですが、不平たらたらで…。でもどうしようもなかったんです。今なら老人ホームなんかもあったでしょうが、当時は養老院がちょっとだけ…。母にしてみれば、今までのびのびと暮らしていたのが、とたんに狭い一室に閉じ込められたんですから…。
呆けたのはまもなくでした。ちょっと外出すると、家へ帰らず、他人様の家に入ってちょこんと座っていたり、警察に保護されたり…。階段でころんで骨折して、ちょっと入院してからというもの急に呆けが進んで、夜昼とっちがえるし、私が疲れて帰ってくるのに、ゆっくり夜眠ることもできないんです。これじゃあ一家心中しかないなと考えたほどですよ、先生…」
表情は暗く、顔色も悪く、ヨレヨレのYシャツの上に粗末なカーディガンをひっかけている。
「ところであなた、本当に社長さんに『首だ!』と言われたのですか」と聞いてみた。
彼はハッとしたように、「ア!そうだ!はっきり言われたわけではありません。『会社の成績が悪いから、お前のような高給とりはやめてもらわないといけなくなるかも』と、なんとなくそんなことをにおわせられただけです」と。
私「それじゃあ、はっきり、社長さんと話し合ってみられたら…」
彼「そうですねえ…。でも、それがこわくて…。なんとなく…」
私「そうでしょうね。よくわかります。でもここまできたら…」
彼「そうですねえ。そうですねえ。…そうしてみましょう。あーなんか気持がすうっとしました。やはり病院に母を入れるのはどうも…。先生ありがとうございました。ありがとうございました」。涙。