私にとって、老いと青春は背中あわせにあった。しらみを殺す作業にふと老いを感じたと前号でのべた。老いは社会の出口-その象徴としての老年痴呆。青春は社会への入口-その象徴としての精神分裂病。その二大疾患(しっかん)は、私の中で微妙にからむ。老いと青春の心性はどこかで交錯(こうさく)する。
もちろん大多数の若者は、私が二十歳のころ、国家のために死ぬことを運命づけられていた。私の友人もそのことに燃え、誇りとし、国家または日本人民のために死ぬことに、使命と意味を求めようとしていた。青春まっただ中「死」であった。
しかし、私は無常を感じていた。末期の眼で戦争を、日本国を眺(なが)めていた。すでに、『心をたがやす』(岩波書店・1994年)で私の生育史にふれたことと無関係ではあるまい。
二十歳のころ、その戦争は終わった。日本全土を焼土(しょうど)と化し、多くの人々が死んでいった。そして、たまたま私は生きのびた。
一部の人々は、さあこれから日本は自由になる、夜明けがくる、民主主義の世となる、と叫んだ。そして、大多数の日本人も、「鬼畜米英(きちくべいえい)」の旗をおろして、米兵に食を求め、やがて「平和」がおとずれる。
しかし、私の心は晴れず、多くの屍体(したい)の上に立っていることの違和感を感じていた。
私が通学していた東北大学工学部金属工学科は、マッカーサーによってつぶされた。日本は、これから鉄もアルミニウムも製造してはいけないとの命であった。教授は涙ながらに廃校宣言をした。日本国もアメリカ国も、私にとっては同じ「権力」と映った。
焼けだされたわが家は、離散する。母は東北の山奥の温泉に逃げ、父は故郷の高知へ帰って、僻地(へきち)の医師となった。私は来る日も来る日も、仙台の焼け跡をさまよい歩いた。この街を凝視(ぎょうし)しておきたいという衝動(しょうどう)にかられていた。黒こげの屍体も凝視した。それは私がこの世に生をうけ、はじめて感じる確かな「生の実感」でもあった。それは、私の人格の芯(しん)に凝縮(ぎょうしゅく)していった。
やがて、私はあてもなく父を求めて高知の山奥に向かう。とんでもない僻地だった。そこにあるものは、上古(じょうこ)から変わらぬ自然の営(いとな)みであった。私は闇とむきあうことになる。もはや、凝視するものは何もなかった。私は消えた。そこは権力も及ばない世界であった。それも「老い」か。この山での半年は「仏様(ほとけさま)の中」にあったのかもしれない。