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老いるについて
 呆けと痴呆の間(6)
浜田クリニック 浜田晋 第33回 <1998年5月>

 (痴呆性老人像のつづき)

 自分の歴史(記憶)を、新しい方から古い方へ消しゴム消しで消してゆく。まず新しい記憶からなくなる。「言葉」だけがなくなるのではない。記憶はカラスやリスにもちゃんとあって、えさをあとのために隠しておく。だから記憶が消えるとは大変なことである。

 もっともそれはひとすじなわではいかない。大勢家族や近所の人たちがいる場で、自分の息子に向かって「あなた誰?」と聞く。息子を認知しているとしか思えない(そう言われた息子は衆人の前で恥をかかされたと思って怒るのも自然であろう)。

 外からみると「恍惚(こうこつ)」にみえるが、その内面はよくわからない。想像力(イメージ)は残っているのであろうか。そこから帰ってきた人がいないので、それは「未知の世界」である。

 精神分裂病の世界よりも未知である。

 人は一歳十ヶ月からうそをつき出すというが、痴呆性老人は果たしてうそをつくか?うそをついていた人がつかなくなるのか。とぼけることはよくあるが。

 痴呆がかなり進行しても、その人の本質(根)はいまだ保たれていることが少なくない。校長先生は校長先生らしく、お坊さんはお坊さんらしく見える。根ぐされになってはいない。日本社会党とはちがう。

 ゆうゆうと今に生きる。もはや死を恐れない。

 鏡とケンカすることがある。自らの姿を見て「このくそじじい!」とつばをはきかけたりする。これは意味深い。

 時に詩人になる。シクラメンに向かって「あなたねえーそんなにお花をいっぱい咲かせなくていいの…花は一つか二つでいいの…」と言う。

 それを聞いて、私たちはほっとする。酸素を与えられたようにありがたい。

 もはや煩悩を捨てる。お札をビリビリと引き裂いて捨てる。お金…物…権力…家族…すべて「無」となる。上下、左右、善悪、尊卑、前も後も、高いも低いも一流も二流も三流もなくなる。敵も味方もない。もはや闘(たたか)わない。

 すずめと遊び出す。早朝ベランダに行って米をまく。そこに群がるすずめをじーっとガラスのかげからみている(すずめは「〜せよ」「〜するな」とは言わない)。


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