その日、私はテレビでそのことを知った。私の街・神戸が燃えている…。
年はとりたくないものである。もう20歳若ければ、私の体はすぐ神戸へ向かっていただろうに。無念だった。
私はそこで医者になった。死者を一番多く出した東灘区のK病院−私を医者にしてくれたところは、東灘区の海辺の街、いわゆる被差別部落だった。昭和25年から27年の頃である。まだそこには戦争を色こくのこしていた。
貧しい町には数多くの結核患者がいた。私が往診をすると、地べたにむしろが敷かれ、そこに重症の結核老人がねかされている。もはや手のほどこしようがないことは明らかだった。夫婦ともども、手をあわせて私をおがむ。そしてこういうのである。
「先生様おねがいや。わてを殺して…おねがいや、わてを殺して…」。
「そんなこと言うたらあかん。生きなあかん。生きなあかん…」と言ったものの、私の声には力がなかったのだろう。息子がどなった。「なんやお前、何しに来たんや…せっかく高い金払うて往診たのんだのに、始末もようせんのか!」と。
私は、ほうほうの体でその場を逃げるしかなかったのである。医者とは何だろう。果たして私は医者になれるのだろうか。私は不安の中にあった。そんな中で私は医者への道を歩くことになった。それからというもの呪文のごとく、私は自らに間う。
「医者とは何か…患者にとって医者とは何か…」と。
そして50年がたった。そして今、その街が燃えている。
果たしてこの50年は何だったのだろう。今改めて私はこの50年を自らに間いなおしてみなければならなくなった。もうのこりは少ないが、一生つづけねばならない…。
兵庫大震災は、医療のあり方についても、大きな課題をのこした。その日、大阪大学救急医療教授・杉本侃教授は大阪で高度近代化された救急センターで待っていた。ところがはこばれてきた患者はわずかに2名。翌日彼は、リンゲル液を車につんで尼崎から神声の病院をめぐる。
そこは地獄だった。病院は傷み、電気・ガス・水道を断たれ、スタッフも被災し、彼はなすことなく茫然とたたずんだという。