老いているうちには、思ってもいないことがおこる。老いの設計をたてたり、戒老記などをものにする作家がいるが、おろかである。そんなに思うようにはいかない。カントだって呆けた。サルトルもあやしい(もっともこれはボーヴォワールによって仕立てられたという説があって定かでない)。
そして今日、呆け恐怖症が世にみちみちた。今や癌ノイローゼやエイズノイローゼをはるかに上まわる。有名な思想人まで呆け恐怖症を告白したりしている。その思想のメッキがはがれたようで、おかしくもあわれである。
さて私は、妙な仮説をもっている。もちろん一般的な合意を得られたものではないから念のため。
呆けることは、その人のもっているものをすべて失い無価値に至るとは考えない。むしろその人の根っこにある本質が顕になるのではないかというものである。たしかに美しく着かざられた衣ははぎとられる。完璧に構成された論理思考や高逼な見識もくずれ去る。高貴な人格も崩壊する。そしてなお生きつづけるのである。
痴呆老人の世界は、精神病理学で一般的に論じられているような空虚な世界ではないのではなかろうか。なにかその人の、もっとも本質的なものだけがのこるような気がしてならない。
ある貴婦人Aさんが呆けた。人を見るとありったけの罵詈雑言をあびせかける。ひっかきにくる。世話になったり近しいものに特に激しい。それでいて彼女はみんなから可愛がられている。今日は馬鹿野郎!とどなったから、お元気そうですよ」とみんな安心する。「私、このおばあちゃんが好きで好きでレようがないの」という看護婦まであらわれる。それとは反対に一見おとなしそうな呆けさんでもひどく憎まれ、いやがられている人もいる。
ところがAさんに拒食がはじまった。頑として口をつむんでたべない。口の中に入れてやると、はきだす。しかし十数名いるナース・雑役さんのうち3〜4人だけが与えると、大口をあけてたべるのである。どうも人をみているらしい。そしてその判断は実にたしかだったらしいこどが、主治医の話からわかった。
ここで「看護の心」の本質を述べる余白はない。ただ一人の呆け老人は、ものの見事に、看護の心をもって生きている人と、単なる仕事でやっている人とを見分けたのである。呆けつつ生きる人間のおそろしさである。常識の衣をはいだところに彼らの「生」がある。
合掌。