自宅近くの駅で行われていたバリアフリー化工事が完成しました。エスカレータやエレべータが取り付けられて段差が解消しただけでなく、狭くて危険だったホームは広げられ、迷路のように入り組んでいた乗換え通路も障害物が撤去されて歩きやすくなりました。眼の不自由な私にとって、地元の駅が安心して乗り降りできるようになること自体は有難いのですが、残念ながら「めでたしめでたし」とはなりませんでした。
工事の影響で改札口の位置が変わり、家から駅へ行くためには150メートルほど大回りしなければならなくなったのです。「その程度の距離で文句を言うな」というお叱りの声が聞こえそうですが、追加された往復300メートルの道中は交通量が多く、歩道のない狭い道を、白い杖を頼りに商店の看板や路上駐車を避けながら歩かなければならず、決して楽なものではありません。雨の日や寒い夜には、ついため息が出ます。
そんな時、心に浮かぶのは、「どうせ改札口を動かすのなら、私の家に近い側にしてくれればよかったのに……」という思いです。そしてあまりの身勝手さに、思わず苦笑を浮かべてしまいます。視覚障害者が生きていくためには、好むと好まざるとに関わらず、多くの晴眼者の方の力を借りなければなりません。多くの人のお世話のうえに、ようやく生活が成り立っているといっても過言ではないでしょう。その現実に日々感謝している(つもりの)私ですが、自分勝手な思いはいつまでたってもなくなりません。自分にとって都合の良いことなら、何でも受け入れられますが、都合が悪くなるなら、どんな小さなことにも不平不満を出すのです。
歴史が始まって以来今日まで、人間は便利さと快適さを追い求めてきました。これまでに誕生した様々な文明や文化が、私たちに多大な恩恵をもたらしたことは間違いありませんが、大きな落とし穴も現れています。私たちが求めているのは結局「自分(たち)にとっての」便利さ、快適さに過ぎません。私にしても、新しい改札口が家に近い側に設けられたなら、便利になったと大喜びするだけで、駅が遠くなってしまった人に対してなんの思いもめぐらさないでしょう。障害者にとって危険な道路も、自分が通らなくて済むようになれば関心が薄れ、いつしか忘れ去るのです。
誰もが、思い通りの世界を求めることが当然の権利としてとらえられている現代では、そのために他のいのちを傷つけたり悲しませたりすることも、ごくあたり前になっています。挙句の果てに戦争(=大量殺人)ですら、「正義」という大義名分を依り処に良いこととされてしまうのです。
経典の中には、「皆悉」あるいは「悉皆」という言葉が多く用いられています。阿弥陀如来は、私たちいのちを生きるものに対して、みな悉く極楽浄土に生まれること(=往生)を願われているのです。浄土とは、自分の欲望を叶える場所ではなく、欲望が叶うか叶わないかにとらわれることなく生きることのできる世界をあらわした言葉です。たとえ都合の悪いことやつらいことであっても逃げ出さずに安心して受け止めていくことのできる、自分の思いから解放された世界です。
欲望を叶えることばかり考えている私たちの人生は、思い通りにならないという苦しみから離れることができません。しかし、仏様の教えに照らされることによって、身に起こった出来事が苦しみを生むのではなく、思いに合わない事実を引き受けられない自分の心が、苦悩のもとになっていることに気づかせていただくのです。そして阿弥陀如来は、自分の思いだけを依り処にして、傷つき、泣いている他のいのちの傍らに立つことのできない私たちを憐れみ、悲しまれて、えらばず・きらわず・見捨てることなく、みな悉く極楽浄土に往生せよと願い、誓われているのです。