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お茶の間仏法味

 いのちの事実
楠 信生(北海道・幸福寺住職) サンガ第90号 <2007年11月>
 

イメージ かつてある先生から次のような話を聞かせていただきました。それはある大都市での平日の朝、電車が人身事故を起こしました。車内放送で事故に遭った方が亡くなられたこと、事故処理を終え電車が動く旨、放送があった時、乗客の変化はほとんどの人が一様に時計を見ただけであったというものでした。放送が入った時、ただ時計を見るという行動しかしなかった人が何を思っていたのか、それを知ることはできませんが、もし時間の損失だけを考えていたのであるならばどういうことなのでしょう。

 その話を聞いてから数年後、私の乗った電車が人身事故を起こしました。事故後、数十分過ぎた時、私のすぐ前の乗客がこれから家族でハワイ旅行に出かけるのに、飛行機に乗り遅れたらどうするのだと、大きな声で乗務員に抗議をしました。大きな声を聞きながら、訴えることはもっともではあるけれど、自分の乗っている列車が事故を起こして人が亡くなっているのだから、もう少し言いようがあるのではないかと、先生の話を想いおこして眺めていました。
 京都の東本願寺では、現代の問題と私たちの課題を明確にする意味で、時に応じてテーマを出します。現在のテーマは「今、いのちがあなたを生きている」です。私自身、このテーマを聞いてからというもの「いのち」ということについて考える機会が増えました。そんな中、ふと日ごろ自分が何気なく思っていることが気になりました。

 それは、寺の本堂のお花に水を足していた時のことです。本堂のお花は大きな束なので、花瓶もそれ相応に大きいのですが、花が新しい時など勢いよく水を吸うため、うっかりしていると水がなくなって花が枯れてしまいます。ところが私はお花の水が減るとだけ思っていて、「切り花も水を吸って生きている」と見ていただろうか、花を枯らしてはいけないと合理的に考えて行動している生活が、はたして花のいのちを見ていたのかと問われたのです。

 いのちの尊厳とかいのちを大切にということに頷いても、人間の心がけでは到底間に合わないような溝が、私たちの思いといのちの事実との間にあるのです。人間の生活は「思いで生きている」とさえ言えるのですが、自分の思いにかなうことだけに心を寄せる時、却っていのちの事実を見ることに鈍感になっているのではないでしょうか。

 いのちの事実を見ようとしないエネルギーが、まさに「暴流(はげしい水の流れ)の如」く自己の中にはたらいていることを知らされます。暴流とは感情的にはげしい状態を表しているわけではありません。自分が冷静に眺め考えている時にも、その流れに漂う者であるから暴流なのです。賢く生きようとして鈍感に生きている自分、そのことを仏の教えを聞いてきた人々との交わりで教えられる、このことがなければ人間が人間でなくなるのでしょう。


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