月が一段と美しく輝き出す季節がやってきました。晧々と夜空を照らす月を見て、私の全体が月の方に吸い込まれてしまいそうな気持ちになったことが何度もあります。そんな不思議な光を放つ月。太古から多くの人に愛され、私も小さいころから「お月様」と呼んで夜空の特別な存在として月を見てきたものです。
学生時代に先生からこんな質問を受けたことがありました。
「なぜ、月が光っているか知っていますか。そして、あの暗黒の宇宙にも太陽の光は降り注いでいるはずなのになぜ真っ暗なのでしょうか」
この問いは私にとって驚きでした。地球に太陽の光が届いているのだから、あの真っ暗な宇宙にも太陽の光は貫かれているはずなのに、宇宙は明るくないことにその時初めて気がついたのです。先生は続けてこうおっしゃいました。
「碍がなければどんなに光を浴びても決して光ることはないのです。だから宇宙は暗黒です。しかし、月はその存在をもって光を身に受けるのです」
仏教ではよく法を光にたとえられます。そして、法の光は世界に充ち満ちているといわれます。では、碍とは、そして法を身に受けるとはどういうことなのでしょうか。
先日こんなことがありました。夏の昼下がり、本を読んでいると部屋の隅に蚊が飛んでいるのが見えました。その時私はその蚊に対して今同じ時を生き、同じいのちを生きている友のように感じたのでした。しかし、数分後、その蚊が私のところに血を吸いにやってきたとき、私がその蚊に対して言った言葉は「あら、そんなことをするなら殺すよ」だったのです。思わず言った自分の言葉に私は凍りついてしまいました。勝手な思いで友と思ってみたり、その友も身に害を及ぼすとなれば数分後には「殺してしまえ」という心になる。自己中心で、自分さえよければいいという、この私の思いは一体どれだけの罪を作っているのでしょうか。
親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第十三章)という言葉を残してくださっています。私たちは、たまたま罪を犯さないだけで、環境次第では縁によって人をも殺す心になってしまうのかもしれません。それは私が蚊を殺そうと思った心の延長線上にあるように思えるのです。
碍は、人生における障害物と言えるでしょう。それは、予想もしない悲しい出来事や、大きな問題となって私たちの前に立ちはだかることもあります。しかしそうでなくても、法に触れ初めて自分の存在を見つめ直し、罪の身を生きる自分自身こそが碍そのものであることに気づくことがあります。法の光に照らされながら日常の生活を確認、確認しつつ、人生に課題を見いだして現実から問われながら一歩一歩確かな歩みを重ねる、その姿に月のような静謐とした輝きが備わるのでしょう。きっとその輝きは暗黒の世にも確かに光が至り届いていることを私たちに教えてくれることになるのです。
三日月、半月と太陽の光を浴びて月が今年も十五夜の満月に近づいていきます。そのさやかなる月の光がどこまでも傲慢な私の足元を照らしてくれるのです。