今年は早くから春の陽気が続いて、2月末というのにもう雑木山が淡い桃色にかわりだしています。もう芽吹く前から木肌の色が変わり、あふれ出ようとするようないのちの営みに、こころが揺さぶられます。やがて雑木山に山桜が咲くようになると、夏の夜空にぱっと上がる花火のような光景が、春霞の中に点々と浮かび上がるのです。
春の雑木山は、 (びしゃこ)の花などがむせかえるような匂いを発していて、何かしら訳のわからぬけれど暴走し出すようなある種の気分が、青春のからだと心の中を駆け巡ります。それが「性」の芽吹きと重なっているからでもありましょうか、五十数年も前のことなのにその感覚が鮮やかに蘇ってくるのです。
昨年亡くなった友人が、「ぼくは春の雑木山が好きだ」といっていたのがしきりに思い出されます。春の雑木山の風情が、生きる本能とでもいおうか、宗教心の発露に似ていて、人を野生にかえそうとするようなものがはたらくのではないかと思います。
もっとも、宗教心などといっても、宗教と言う言葉に手垢がついているので誤解を招くかも知れないけれど、人が見失っている本来の自己と出遇う時、野生の魂とでもいいますか、そこに帰る時を回復する意味で宗教心といってみたいのです。つまり私という思いを超えて、計らずも人間たらんとする心が発起するという意味ですが、もっといえば、生きてあることの重さ、恥ずかしさを知る世界といってもいいかと思います。
永劫の時の重さをかろやかに
風にまかせて散る山桜花
これは亡き師からいただいた歌ですが、人として生きることの重さ、出遇いの時の重さを知り得た人の言葉だと思います。それに、かろやかに散る山桜の花びらに驚き立つ感動と恥ずかしさが重なっているのです。いつであったか「新しい酒は新しい皮袋に」という言葉を教えてもらいましたが、宗教あるいは宗教心という概念が、どのような問題をいい当てようとしているのか、今日のような時代は、人間という言葉ともあいまってさまざまな意味合いを込めて使われるだけに、その中身が問題なのです。
話を元に帰しますが、春の雑木山が感動的なのは、杉や檜の山に囲まれているせいでもあるのですが、皮肉なことに戦後の国策、造林行政の指導で植えられた杉や檜には人の手が入らず、放置されたまま荒れ放題です。私の住む町はもう少し行けば奈良県境になるのですが、山裾に流れる川は、一見清流に見えますが、上流域にダムができ生活排水が加わって、今やどぶ川と化しています。山間の町は過疎化がどんどん進んで、老人一人の家が増えています。今は、ほとんど人通りのない街道に、老人ホームのデイサービスの車が忙しそうに行き交っています
。
いってみれば、お茶の間がなくなりつつあるのです。
むしろ、お茶の間をつきやぶって、人と生まれたことを問いかえさずにおれないような出来事が雑木山の麓で起こっているのですが、たまさか人と生まれながら、その出来事が発する「野の声」にも出遇わずに、従って人が人でなくなっている現実に気づかずにいる。わずかにその恥ずかしさを教えられて人となっていく、そんな出遇いの時が到来しているように思います。