
「人は生まれようとしてこの世に生まれてきたのです。」
本当だろうか? そんな生まれる前のことなんかわからない。私はにわかにはその言葉が信じられなかった。
そんな私に、大江健三郎さんが息子の光さんとの日々について書かれた本、『恢復する家族』の一節が目にとまった。
その中の「仕方がない、やろう!」という章の中で、大江さんはウィリアム・ブレイクの『セルの書』を取り上げている。
永遠につづく生命の谷に住んでいるセルという娘が、その生に疑問をいだいて百合や雲と問答をかわす。そしてセルはついに天上の谷から地上の人間の世界へと降りていく。その涙と悲しみの国を見たセルは、怯えて天上へと逃げ帰る。
それに対して大江さんはこのように言う。
自分らは、この地上の国へとあえて降りることを決意した、そして天上へと鋭い叫び声をあげて逃げ戻ることはしなかったセルなのだ。いま地上にいる自分はそれを忘れているが、こちらへ降りてくるに際して、自分の魂はある決意をしたのだ。おそらくは、―仕方がない、やろう!といったのだ、と……
(大江健三郎『恢復する家族』)
苦しい時、ゆきづまりそうになってしまう時、私はこの言葉を思い出す。
そう、私の魂もまたひとたびこの悲しみの世をのぞいたにもかかわらず、逃げ出すことなく「行こう!」と自らの意志でこの世に生まれてくることを決意したのだ、と。
ところで、そう決意した「私の魂」とはどこにあるのだろうか。
仏教では、私たちが深層心理と呼んでいる深い意識の底に、清浄な意識の世界があることを伝えてくれている。
普段は、人を憎んだり、人と比べたり、あれが欲しいこれも欲しい……と、自分はそんな意識しか持ち合わせていないと思っている。
でも、そうした思いを一枚ずつはいでいった意識の根底には、この世に生まれてきたことを本当に喜び、自分が生まれたことの意味を深く求めていこうとする意欲に満ちあふれた「いのち」が、脈々と息づいている。
お念仏とは、呪文でも何でもない。そうした「いのち」がある、その「いのち」に気づいて生き生きと生きてゆこうという、私たちへの呼びかけである。
日頃の私たちには、その深い意識は、時に「さびしい」「空しい」というかたちで現れてくる。
でも、それはとてもかすかな声。もしその声が聞こえてきたら、何かでまぎらわすことなく、じっと耳をすましてほしい。それは「いのち」にめぐりあうチャンスかもしれない。
それに気づいた時、人はひとりではない。一緒に聞いて考えていこうという友が、仲間がきっといる。