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お茶の間仏法味

 嫁ぐ娘へ
蓑輪 秀邦(福井県・仁愛大学教授/仰明寺住職)サンガ第81号 <2006年5月>
 
イメージ 今 「お父さんの集めた食器を少しもらっていっていい?」10年まえ、嫁ぐことになった娘が私に言った。「あぁ、いいよ、気に入ったのがあったら持っていけば」と私は答えた。

 私の住む福井県には日本六古釜の一つ越前焼の長い伝統があるが、近年廃れ気味だった。しかし40年ほどまえ「越前陶芸村」ができ、いろんな若手陶芸家たちが移り住んできて少し賑やかになった。その陶芸家の幾人かとお付き合いするようになって、私は日本の焼き物のすごさを知った。

 あるとき京都で人気の割烹料理店の板前さんが、越前陶芸村に住む知り合いの陶芸家宅へやってきて料理を作るから食べに来ないかと誘われ、出かけた。食材のほとんどは陶芸村周辺の山菜だった。夕方仕上がった料理は、大小色とりどりの器に盛られ、集まった仲間たちの前に出された。器はもちろんその陶芸家の作品ばかりで、料理と見事に調和していた。「この人の作った皿に出会ったら、それにあう料理を作ってみたいと思うようになったので」と、その板前さんはここに来た動機を語った。料理のすべてが最高に美味かった。「料理のうまさは、器が決める」という話はほんとうだなと思った。

 スーパーで買ってきたコロッケを食べるのに、パックの蓋を開いてそのまま箸でつまむ家もある。パックから出して、適当な皿にのせて食べる家もある。娘が生まれる数年前までの我が家はだいたい後者だった。しかし、その板前さんに出会ってからは、食にあわせて器を選ぶようになった。「美味い」と感ずるのは味覚のはたらきだと思っていたが、臭覚、触覚、聴覚は言うに及ばず、最後は視覚が決定的な役割をつとめるということもわかった。

 こじつけになるかも知れないが、仏教では浄土という世界を器世間と衆生世間という二つにわけて説く。そこに「器」という文字があるのが面白い。器世間は衆生を生かす器、つまり環境である。我々が生きている世界の環境はどんどん汚くなっているから、そこに棲む衆生もパックのまま食べるコロッケみたいにどんどんまずい味になっている。それに比して浄土の環境は清浄である。だから、そこに住む衆生の命は生き生きと輝いて美味である。仏法を聞くということは、その浄土という器の清浄さに触れるということだろう。そうすると、自分の命が生き生きと輝いてくる。

 親鸞聖人は、和讃という形の詩を書いて、自分が触れた浄土を讃嘆されている。どれも美しい詩である。親鸞聖人には文才や詩才があり、一種のアーティストだという人もいるが、浄土の讃嘆は単なる詩才だけでは出来ない。浄土の世界に触れ、浄土の命に生きたからこそ美しいものをめでる眼をもたれたのではないかと思う。もしあの時代にコロッケがあったら、親鸞聖人はそれにあう器にのせておいしくいただかれたことだろう。

 「これとこれと・・・・・・・これももって行くよ」と、私の好きな器を一個一個丁寧に紙に包んで、そっと箱に詰め込んでいる娘の姿を眺めながら、「この娘も、やがて生まれてくる子に美しいものを大切にする心を伝えてくれるだろうなぁ」と、私はほっとしたような穏やかな気持ちに浸っていた。


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