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お茶の間仏法味

 渚にて
酒井 正夫(三重県・道浄寺住職)サンガ第80号 <2006年3月>
 
イメージ 今年いただいたある人からの年賀状には、屋久島の夕焼け空の浜辺で、1匹のカメが海に帰っていく美しい情景が画かれていた。そして、そこに「屋久島のカメいわく」として、

 生まれるいのちと死するいのち
 その間でわずかの縁をいただいた人間よ
 何を引き継いで生きるのか
 何を残していくのか

という、問いかけの文が添えられてあった。

 私は今、伊勢湾がすぐ見えるところに住んでいる。この辺は、まだわずかだが自然の豊かさが残っていて、毎年ある時期になると、産卵のためにカメが砂浜にあがってくる。

 そして、その地熱を利用して卵を孵化すると、生まれたばかりの子ガメたちが、誰に教えられることもなくヨチヨチと波打ち際を目指す。その光景に触れると、自然の確かな本能が無感動な日ぐらしをしている私の魂を揺り動かし、微かな感動を呼びおこしてくれる。子ガメの、その一歩、一歩の行為は、たんに自分の力でない。それこそ、かぎりなく月の光に照らされる、と同時にさざ波の音(声)に導かれ、促されての営みであるわけだ。

 その出来事を見聞きするたびにいつも私は、改めて気づかされる。一切の生きとしいける、すべてのものはみな海へ帰る。すなわち無意識よりももっと深いところには、それぞれのいのちがそのままに安んずる、光り輝くことのできる−存在の故郷を求めてやまない志願が宿されているのだと。

 よく私たちは、今の若い者には宗教心がない、困ったものだと勝手に決めつけ、お互いに歎くということがある。しかし、果たしてそうなのか。私はいろんなジャンルの音楽、歌が好きだ。たとえば、尾崎豊が亡くなって13年以上たった。彼のデビュー曲でもあり、最後のコンサートで、一番終わりに歌ったのが「十五の夜」である。そのフレーズには、

 とにかくもう
 学校や家には帰りたくない
 自分の存在が何なのかさえ
 解らず震えている

という、ほとばしる、そのいのちの叫びには存在の故郷、すなわち真実の帰依所(居場所)を求めてやまない志願(=宗教心)がうずき、脈打っているではないか。
 にもかかわらず、私たちは帰るべき人生の真の方向を見失い、存在(自己)に背いて生きている。何故生きなければならないのか、生きる根拠を喪失したまま、さまざまな日常的関心、欲望に囚われた生き方をしている。

 実は、その「あさましきわれら」たる凡夫がつまらないのでない。あたかも生ける屍のごとく、虚しく流転の生をくりかえして生きているわれら凡夫の身には、すでにどんな人も決して見捨てることのない、それこそ存在の故郷へかぎりなく呼びかえす、転ぜしめ、帰入せしめる、一人ひとり目覚める時が必ず訪れるのだと、絶対の信頼をもって待ち続けてくださっている如来の悲願が、鉱脈のように等しく流れているのだと、ただそのことひとつを、生涯かけて身をもって明らかにしてくださった、その人こそ、まさに親鸞である。

 まさしく念仏は海、すなわち、潮が寄せかけてはひいていく、渚という場との出遇いの思想なのである。

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