
ご門徒さんのお家へ、毎月お参りに行く。それぞれの亡くなった方の月命日に、お内仏(仏壇)の前でお勤めをするのである。そこで出会うのはお年寄りが中心だ。毎月、顔を合わせていると、親近感がわいてくるし、言いたいことが少しずつ言える関係になってくる。あるおばあさんは「ご院さん(お寺さん)に来てもらわないと何か忘れものをしたみたい」と表現された。
81歳のおばあさんは2年前、市営住宅の改築をきっかけに、新しい棟に引っ越された。旧の3Kの室内は物があふれかえっていた。お内仏の前が少し空いていて、そこでお参りし、こたつの机でお茶をいただいていた。袋が積まれ、物がひたひたと押し寄せてくるようだった。「おばあさん。物もちがいいねぇ」「そうかねぇ。戦争経験してるから、物は大事だよ」「そうなんだ」。私は自分の家のことを思い浮かべていた。おふくろも彼女と同世代。わが家も物があふれ、物を捨てる捨てないで何度も口論した。「あんたはそういうけど、これは私が苦労して持ってきた物だよ」「何もないところから集めたんだ」と言われると、私はしょうがないなぁと思いながら、引いてしまっていた。
おばあさんの新居は、物も整理され、少しゆったりとしていた。ただ、きれいすぎて落ち着かず、お経をあげてすぐ席を立つようになってしまった。新たに月参りに行くようになって半年が過ぎたころから、物が増えるとともに居心地がよくなり、なが居をし、話がはずむようになった。
今春、ケニアの環境副大臣のワンガリ・マータイさんが日本を訪れた。彼女は昨年、ノーベル平和賞を受賞された方だが、「もったいない」という言葉を知って、すばらしい言葉だと高く評価され、各所でそのことを語られていた。私はこの「もったいない」を南海も聞かされているので、マータイさんの報道を見聞しながら、そこにおふくろや多くのお年寄りの姿が重なっていた。その時、ふとわたしは自分自身のことを思ったのである。物との関わりのことが気になりだした。おふくろやお年寄りとの関係の中で、私は「物を捨てられないあの人たちはおかしい。ケチにすぎないじゃないか」と思っていたふしがある。自分自身はどうかといえば、ご多分にもれず次から次へ物を買い、新しいものを求めている姿がある。消費社会のサイクルの中で泳がされているわけである。どうも私たちは、物との関係が希薄になっただけ、人間関係も薄くなってきたのではないか。物を捨て、新しい物に換えていく感覚が一人の人間に対しても、同じように思ってしまう危うさがある。
戦後60年を経た今。私とお年寄りとの間に何があるのか。それは戦争体験だろうか。ケチともったいないの間で揺れながら私は思う。物には自分の思うや秘めたる家族や友人との歴史がこもっているのをお年寄りとの関わりから教えられる。ひとつの物にかけがえのなさを感じる時、次へ伝えていこうという願いが込みあげてくるのだ。
そこには貧しさと豊かさだけでは計れない大切な心持ちが底にながれているようである。
どれだけ多くのものではなくて
どれだけ少ないもので暮らすか
リンドバーグ『海からの贈りもの』